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タオイストと儒家 ~『タオとコブタ』~ [支那通信:CHINA journal]

ここでぼくたちは、タオイストが昔から<とても小さい動物>を好んでいることに注目してもいいだろう。いわゆる動物はべつとして――これを儒家はただ食べるか、犠牲(いけにえにするか、あるいは犂や車を引かせるだけのものとみなしているが)――儒教が支配する伝統的な中国社会<とても小さい動物>というと、女と子ども、それに貧しい人々だった。

強欲な商人、地主、役人に踏みつけにされて、貧乏人は儒教的社会の最底辺にいた。いい方をかえれば、まったく数に入っていなかった。女たちは、たとえ裕福な家庭の女性でも――とりわけ裕福な家庭の女性こそ――しあわせな暮らしだったとはいえない。女性に対してあまりに抑圧的で今日の西洋ではだれひとり理解できないような、親が決める結婚、一夫多妻、纏足(てんそく:事実は足の破壊だ)その他もろもろの慣習を儒家がとりしきっていたからだ。子どもたちだってそうそう愉快にやっていたわけではない。堅実な儒家にとって、子どもは家系を継続させるため、なんであれ無条件に親に従い、親が老いればあらゆる世話をするために存在していた――自分なりの考え、理想、興味などもってはならないのだ。儒教のもとでは、父親が自分にしたがわない息子、名誉を傷つけた息子を殺しても当然とされた。子のそうした行いは犯罪同然とみなされたのだ。

それに対し、タオイズムでは、尊敬は当人しだいと考えられていて、もし親父さんに正しくないふるまいがあれば、家族には逆らう権利があった。そらは、皇帝とその<家族>――臣民――にもいえた。もし皇帝が暴君なら、人民は彼を玉座から追いはらう権利がある。儒家の政府高官は、タオイストや仏教徒の影響を受けた秘密結社にいつもびくびくしていた。それらは、事態が耐えがたくなればいつでも、踏みつけにされている者たちを守って玉座をひっくり返そうとしており、それもめずらしいことではなかったからだ。

タオイストはいつも<負け犬>に共感していた――中国社会から見捨てられた悲運の人々だ。なかには腐敗した商人や役人の策略にかかって経済的に破滅して、やむなく<緑林の兄弟>(法的な保護を剥奪された者)となり、<江湖の客>(漂白者)となった者もいた。中国武術は主としてタオイストと仏教僧が、身をまもる手段のない人々を守り、自衛させるために発達させた。武術というより反武術と呼んだほうがいいかもしれない。というのも、それは弱者に剣を抜く者がいるところ、武装した盗賊はもちろん将軍やお上の兵士に向かってもつかわれたのだから。仏教武術が防衛の<ハード>な手法(そこから力をつかって直接攻める空手とテコンドーが出た)に集中しがちなのに対し、タオイストは<ソフト>な手法に専念する傾向があり、たとえば、流動的で間接的な太極拳や八卦掌(柔道や合気道に似ているが、もっと洗練されている)などがある。

権力の乱用と思われるものをやっつけるのに、タオ作家はその文章術をつかって、タオ武術家が相手の攻撃力を消し去る動きやツボをつかってしたのとおなじことをした。文学的な真実を虚構を武器に、かれらは権力者の非行を公表し、よこしまな者、傲慢な者、尊大な者、残虐な者を嘲笑した。閉口した儒家は何度もこうした文書を取り締まろうとしたのだが、多くのばあい、成功しなかった。庶民の共感を得られなかったからだ。

位も高く権力もある儒家が一般にはほとんど動物に敬意を払わないこと、また、ときどき中国の<劣った>人々を<豚>や<犬>よばわりしていることを見れば、タオ作家が多くの動物譚――実際のできごとの記述も、想像上の話もあるが――を記録したのも不思議ではない。そこではネズミ、蛇、猛禽など嫌われものの生きものが、<高級な人々>も見習ったほうがいい有徳のふるまいを見せる。これらの話では、動物たちの勇気、愛情、誠実、正直が、富裕な地主、商人、役人の思いあがりや偽善と対比される。

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『タオとコブタ』 ベンジャミン・ホフ著 より引用

タオイスト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99

儒家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99

TAOの入り口にようやっとたどり着き、いろいろとお勉強中ですが、
その道の途中で、とても心に響いた内容をシェアせていただきます。

仏教の世界から生まれた拳法が、有名な少林寺拳法。
少林寺は、達磨大師が修行されていたお寺でもあります。
座りっぱなしの修業の問題解決方法の一つとして、拳法が盛んになったそうです。

タオイストによるソフトな中国武術の誕生。
仏教と道教の違いが、拳法の違いに出ている?

長年、仏教と生きてきた僕が、今、オッサンになって出会った、TAO。
今の僕には、ソフトな拳法のほうが、肌(身体)に合います。

THE GRANDMASTER | Daughter Of The Master
https://www.youtube.com/watch?v=Jju0Hy2oIDw

この映画の中で、チャン・ツィイーが演じているのが、
八卦掌のマスターの娘です。

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チャン・ツィイーが悲鳴をあげた! 壮絶『グランド・マスター』の特訓映像が到着
より引用

【中国武術・カンフー基本講座】八卦掌とはどんな拳法なのか!
https://www.youtube.com/watch?v=jxfS4P9VCSg

池袋・川口…ミニ中華街が続々 共生の一歩は太極拳?
https://bit.ly/2P2EauG

邱惠芳 24式太極拳 2017 TaiChi 24 form Tutorial
https://www.youtube.com/watch?v=XxMJNWdYy_Q

武学概念と老子思想の共通点とは
https://www.youtube.com/watch?v=RisFswJuA6A<

PEACE

水のように ~タオ―ヒア・ナウ/TAO HERE NOW~ [支那通信:CHINA journal]

水のように

何よりもすすめたいのは、
「水のようであれ」ということだ。
水は、あらゆるものに命を与える。
養ってくれる。
大変な力をもっているのに、争わないのだ。
人のいやがる低いところにも、流れこんでいく。

タオ」につながる人もまた、水に似て、低いところを好む。
心を求めるときは、いちばん深いところを喜ぶ。
他人と接するときは、柔らかく受け入れる。
何か言う時には、できるだけ正直な心で言う。
静かさをたのしむのは、もちろんのことだが、
動くとなれば、
スムーズに、どんな変化にも応じるんだ。

ところで、こうした人の行き方を貫くのは何かといえば、
争わぬというひとすじだ。
だから、だれの非難も、こうむらない。


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『タオ―ヒア・ナウ』
老子(著), 加島 祥造 (翻訳) より引用

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明日一緒に遊ぼうよ ~ナナオサカキさんの詩より~ [琉球通信:OKINAWA journal]

明日一緒に遊ぼうよ

那覇の街を見下ろす小高い丘
昔々ここは浅い海 珊瑚の森がありました
魚と貝 竜宮城もありました
やがて海は退き 残されたこの丘を
島人はケラマチージと呼びました
長い間 島人は平和に暮らして来ました
ある日 北と東から 心無い軍隊がやって来て 戦いを始めます
ケラマチージを攻める者 ケラマチージを守る者
たくさんの島人が 兵士が ここで傷つき 狂い 死にました
戦い終わり 41年の月と日が 風と一緒に流れます
しかし 今日も空にはジェット戦闘機 海には軍艦 陸には戦車
戦争と戦争の谷間 心もとない平和の昨日が 明日に揺れ続きます
秋風そよぐ日暮れ時 遠くに海が光っています
ここケラマチージの丘には 今 仏の寺とキリストの教会が建っています
愚かな戦に流された おびただしい血と涙の丘に
釈迦牟尼とキリストが並んでいます
秋風そよぐ日暮れ時 遠くに海が光っています
釈迦牟尼とキリストの並ぶ丘から降りてくる僕に
ちっちゃい男の子2人が声をかけます
「もう帰るの」
「うん」
「じゃあ 明日一緒に遊ぼうね」
愚かな戦に流された おびただしい血と涙の丘 ケラマチージ
ちっちゃい釈迦牟尼と ちっちゃいキリストが声をかけます
明日一緒に遊ぼうよ

明日一緒に遊ぼうよ
http://amanakuni.net/nanao/sound/kokopelli/14.mp3

ナナオサカキさんの詩・朗読 より書き起こし

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那覇・小禄のがじゃんびら公園 ~「花風の港」 美空ひばり~ [琉球通信:OKINAWA journal]

ガジャンビラ

むかし、沖縄が琉球王国とよばれていたころのことです。そのころ琉球は中国との進貢貿易を中心に、アジアの国々との貿易で莫大な利益をあげていました。

ある年、琉球の貿易船が中国の港に入りました。琉球の人々にとって、目に入るものはすべてめずらしいものばかりです。

その一つに、夕方になると、どこからともなく飛んできてブーンという音をだす虫がいました。

「これはめずらしい。こんな虫は見たことがない」

蚊の羽音に心をうばわれた一人の船乗りがつぶやきました。

この船乗りは、帰国のときがくると、おみやげとして蚊を持ち帰ることにしました。当時、沖縄には蚊が一匹もいなかったのです。

船乗りは、たくさんの蚊を木箱に入れ、帰りの船でもその音を楽しんでいました。

耳元にあてると、羽音は大きく聞こえたり、小さく聞こえたりします。船乗りにとって、それはなんともいえない心地よいひびきでした。

「村のものは、きっとびっくりするぞ」

村人のおどろくようすを思いうかべながら、船乗りはうれしそうに木箱をながめるのでした。

やがて貿易船は那覇に入港しました。船でのしごとをすませると、船乗りは南部にある自分の村へといそぎました。

那覇港を出て、垣花(かきのはな)の長い坂道をのぼっていた船乗りは、一息つこうとして坂の途中で腰をおろしました。そのとき船乗りは、蚊の羽音が聞こえないことに気づきました。

「あれ、どうしたんだろう?」

船乗りは、かるく木箱をゆすり、そうっとふたを開けてみました。そのとたん、ブーンという音がして、蚊がいっせいにどこかへ飛んでいってしまいました。あわててふたをした船乗りですが、もうあとの祭りです。

「アイエーナー、一匹でものこってないかなあ」

船乗りは、耳元に木箱をあててみましたが、なんの音もしません。それでも用心しながらふたを開けると、またしても数匹が逃げていきました。

沖縄の蚊はこうして各地にひろがったということです。蚊を逃がした坂は今でも「ガジャンビラ」とよばれています。
沖縄では、蚊のことをガジャン、坂のことをヒラといいます。ガジャンビラとは「蚊の坂」という意味になります。

那覇軍港をすぎたあたりから自衛隊那覇駐屯地へのなだらかな坂道(国道331号)がガジャンビラです。ただしガジャンビラは俗称で本来は我謝坂(ガジャビラ)とよばれたいたそうです。

また、この坂道の近く、那覇港を見下ろす高台には公園があり、ガジャンビラ公園と名づけられています。

『沖縄の由来ばなし』 文:徳元英隆 絵:安室二三雄 より引用

一人の人間の遊び心で、沖縄に「蚊(ガジャン)」が持ち込まれてしまい、
しかも、拡散されていまったというお話。
(その昔の、新しい文化の伝搬って、マジでこんな感じだったのでは?)

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アブシバレー(畦払い) ~沖縄の旧暦4月14・15日~ [琉球通信:OKINAWA journal]

夏本番を前に、農作物がすくすくと成長する季節。そんな時期に作物を荒らす害虫を退治し、豊作を祈る行事がアブシバレー。アブラムシやネズミなどは、作物にとっては迷惑な存在。けれども彼らにも命があり、なんらかの役目を担って生きています。

この行事では、捕まえたネズミを単に殺してしまうのでなく、藁(わら)やクバで作った小舟に乗せてニライカナイへ送る儀式を行います。いまは子どもたちが虫を捕まえて海に流し、命の大切さを学ぶ機会としてアブシバレーを行う地域もあります。

また、この日からハーリー鐘がなるまでの期間は、

「ウミドメ(海留め)・ヤマドメ(山留め)」

山や海に入ることが禁じられていました。これは琉球王府が定めたもので、この禁を破ると風害が起きると信じられていたとのこと。しかし真相は、この期間、漁や山の幸の収穫を控え、自然に任せることで、海や山の幸に大きく成長してもらうという意味があったそうです。

『沖縄暮らししきたり読本 御願行事』 比嘉淳子著 双葉社 より引用

アブシ:”畦”(あぜ、田畑の境目)
バレー:”払い・祓い”

「虫払い」って言ってます。

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神々のうた 大地にふたたび ~アイヌ少女・知里幸恵の闘い~ [愛奴通信:AINU journal]



その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

大正十一年三月一日
知里幸恵

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『アイヌ神謡集(あいぬしんようしゅう)』 知里幸恵 編纂・翻訳 より引用

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海で穢れを祓う・沖縄編 ~旧暦3月3日浜下り(ハマウリ)~ [琉球通信:OKINAWA journal]

満ち潮の大きい秋の大潮に対して、春の大潮は引き潮が大きいので潮干狩りにぴったりです。昔から、砂浜を歩いたり手足を海水につけるだけで禊(みそぎ)ができる

といわれています。海に着いたらまず海水でウビナディをして

「これかれも健康でいられるよう、悪いモノから守ってください」

と祈りましょう。もともとは身の穢れを海に流す意味があり、大きく潮が引くこの日に流せば、はるか遠くまで流れていくそうです。

浜下り(ハマウリ)では、サンゴや海砂を持ちかえって庭にまくのも厄払いになります。庭だけでなく、墓や御嶽にも敷いてあるのを見たことがあると思います。

海は元来、魔除けや禊ができる場所。

『沖縄暮らししきたり読本 御願行事』 比嘉淳子著 双葉社 より引用

ウビナディ(お水撫で):中指に若水などを取り、眉間につける動作を3回行なう。

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沖縄の世界遺産「玉陵(たまうどぅん)」~琉球国王の系譜~ [琉球通信:OKINAWA journal]

玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1527年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。

玉陵(たまうどぅん) -Wikipedia より引用

”第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓”

と記されてますが、第二尚氏王統って、なんじゃらほい?

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登川誠仁 の「戦後の嘆き」が生まれたいきさつ [琉球通信:OKINAWA journal]

「戦後の嘆き」は、あるウチナーンチュの元兵隊さんのことを思い浮かべて作った歌です。

私がコザに来た時ですから、1950年代も終りの頃です。この人は国頭の人で、酒場で知り合った兄さんでした。この人は15、6くらいから本土に渡って働き、むこうで招集も受けたそうです。だから親の顔も沖縄も、ずっと見ていなかったんだろうと思います。

戦が終って兄さんは沖縄へ復員してきました。彼も命からがらの状態です。ところが沖縄は壊滅状態、たくさんの人が死んで、自分のシマへ帰っても親兄弟もいなかった。彼は絶望のどん底にあったのでしょう。コザの横丁の飲み屋で、彼は年下の私を前にして、よく泣いていたのです。

私が悲しそうな歌をうたえば、自然と兄さんは自分の戦後の嘆きを語り始める。そしてまた涙を流す。その繰り返しです。

「また明日、ここで飲もうか」「あなたも来ますか」「ええ」……何度かこんな言葉を交わしました。しかし、いつしかこの人の姿は私の周囲からは消えていました。寂しそうで本当に可哀想な人でした。

歌が「降りてきた」のはその後のことです。
…………

この悲しい歌詞を、私は時間をかけてメロディを付けてみようと思いました。そしてしばらくして今に謳われる「戦後の嘆き」が58年に完成したのですが、もうあの兄さんはこの世にいなかったようです。

風の便りが「あの人は亡くなったようだ」と伝えてきました。

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『キナワをうたう―登川誠仁自伝』 構成・藤田正 より引用

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