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与那国島は「琉球ムー大陸」の沈まなかった部分 [琉球通信:OKINAWA journal]

『新説 ムー大陸沈没 沖縄海底遺跡はムー文明の遺産か?』

『沖縄海底遺跡の謎―世界最古の巨石文明か!?』

『海底宮殿―沈んだ琉球古陸と“失われたムー大陸”』


チャーチワードムーを「ポリネシアムー大陸」と呼び、それとは区別するために、
新たに「琉球ムー大陸」という概念を打ち出している、

木村政昭先生(琉球大学名誉教授、理学博士)

の著作は、どれも大変興味深く読ませていただきました。

沖縄で海底遺跡と言えば、与那国島か沖縄本島の北谷が有名です。

2007年のホクレア日本航海の直前と、
翌年の2008年に沖縄へ引っ越す直前に、与那国島に行ってます。

2回とも、石垣島からフェリーで往復したのですが、
片道、約4時間半の、わりとハードな船旅でした。
天候が不安定で、渡るのが難しいとこから「渡難(どなん)」 と呼ばれた島を十二分に味わいたいならフェリーがおすすめ

石垣島が見えなくなったころに、遠くに与那国島が見えてきます。

宿泊は2回とも久部良でした。
久部良は、その昔、糸満からの海人(ウミンチュ)で構成されていた集落です。

僕が、琉球弧で、沖縄本島以外の島に上陸したのは、まずは久高島で、
続いて、与那国島ということになります。

海底遺跡へは、船で2回行きました。
兎に角、目の前に現れる不思議な光景を事実として受け入れるしかなかったです。

【あれは、絶対に人工物です】

あの場所に、確実に、現代とは異なる、なんらかの文化・文明があったのは間違いないです。
島の南側に、摩訶不思議な遺跡が集中しているのも、太平洋とのつながりを匂わせます。

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Photo by Toshi

海底遺跡のある新川鼻へは、陸路でも1回行ってます。

僕が、最も強力なインパクトを受けたのが、「人面岩」で、
(ぶっちゃけ、島中がインパクトだらけですが)

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Photo by Toshi

どう見ても、ポリネシアン・トライアングル系?(海のモンゴロイド系)
の像によく見られる、舌を出した人の顔です。
(チベット系の人たちも、挨拶のときに舌を出しますが)

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Photo by Toshi

舌の部分は、別なパーツになっています。

これ、海が見える高台にあるんですが、
視界に入ったとたんに、思わず「なんじゃこりゃー」って大声で叫んでしまったもの…

頭の部分の角には、溝があって、
クレーンみたいなもので吊るせるような構造になっている?
(どこか、他の場所で作って、運んできたのか?)

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Photo by Toshi

僕が与那国島に興味を持ったのは、この「立神岩」の存在を知ったからで、
この景色を、この眼で見たい~という思いが、けっこう長く続いていたので、
「立神岩」を眼の前にしたときは、「あ、ほんまにあった~」って感じでした。

この近所に「サン二ヌ台」というのがあります。

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Photo by Toshi

「サンニヌ台」は、海底遺跡の続きで、海中に沈まなかった部分です。

2007年に行ったときは、近くまで行けたのですが
2008年には、立ち入り禁止になっていました。
たぶん、雨風による劣化?で、観光&見学には危険とみなされたからだと思われます。

与那国島に関しては、書ききれないぐらいのネタがあります。
琉球弧の中では、際立って、奇妙な島だと、僕は思います。

ちなみに、与那国島の夕陽は、海に沈むのではなく、台湾に沈んで行きます。
(台湾までは約110km)

2008年に、沖縄本島に引っ越してからは、
「足止めの法」をかけられてしまい、沖縄本島から出られなくなっている状態ですが、
最近、その「足止めの法」を解く呪文を伝授されたので、
そろそろ、また、あちらこちらにお出かけしたいです。

もちろん、与那国島は、最初に行きまっせ~

現代人が手に入れたもの、失ったもの…
どちらも、たくさんのものがありますが、
失ったものの中には、とても大切なものがあるような気がします。

ポリネシアでは消滅してしまったスターナビゲーションなのですが、
ミクロネシアのマウさんの協力があって、ホクレアはストーリーを始めることができたし、
トンコリも、OKIさんがパワーを注がなかったら、
アイヌの弦楽器として復活したかどうかは疑問です。

どうやら僕は、失ったものを復活させてきた人たちと、ご縁があるみたいです。

PEACE


神女と王の恋 ~『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』 比嘉康雄著 より~ [琉球通信:OKINAWA journal]

久高島で一番古いムトゥと考えられている大里家(ウプラトゥ)の前に、枝があたりいっぱい這うように広がり、濃緑色の厚ぼったい葉を小山のように繁らせているガジュマルの樹がある。このガジュマルの庭先近くの太めの枝をさして、「クゥンチャサンヌルが首吊って自殺した枝だ」と、大里家の男性神職者の西銘豊吉さんが生々しく語るのを聞いたことがある。
「死に方がよくなかったから、クゥンチャサンヌルは死んだ後、ノロ(ヌル)の位から根神(ニーガン)」の位に下げられた。今では外間根家(フカマニーヤ―)の根神の祖先として大里家に祀られているんだ」と出来事がまるで最近あったかのようにいう。

クゥンチャサンヌルは大里家の娘で、ヌルといわれた神女であった。その死について、久高の人々はこういう物語を語る。

「(琉球王朝の)尚徳王がクゥンチャサンヌルと恋に落ち、政治を忘れてロマンスの日々を久高島で過ごしているうちに城内で革命が起こり、それを知った尚徳王は帰りの船中から海に身を投げて死んだ。これを悲しんだクゥンチャサンヌルは、家の前のガジュマルで首を吊り自殺した」

クゥンチャサンヌルの自殺の理由は、愛人であった尚徳王の自殺の後追いであったというのである。
…………

クゥンチャサンヌルは美人と伝えられてもいたが、目に見えない異界と交信する超能力を持つ評判の高いシャーマンであったという。尚徳王はその存在を知り、なんらかの苦境を打開する目的でたずねたというのが真相ではないか。再々通っているうちに、尚徳王はクゥンチャサンヌルの超能力と美貌に魅了され、恋に落ちたのではないだろうか。

じつはこの物語の時代はノロ制度が施行される以前であって、久高島にはまだシマを統轄する官人としてのノロは存在していない。祭政一致政策として施行された、王妹<聞得大君>を頂点とする神女組織であるノロ制度は第二尚氏王統第三代の尚真王時代になってのことであって、それ以前の久高島では、血族のムトゥが何軒か誕生しており、その各始祖家に超能力を保持する女性神役がおり、その力でムトゥに属する人々の命運を司っていた。

中でも一番古い大里家には、久高島にとどまらず沖縄本島まで評判の高い、優れた超能力と美貌の持ち主、クゥンチャサンヌルがいたのである。

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『日本人の魂の原郷 沖縄久高島 (集英社新書)』 比嘉康雄著 より引用

1429年に三山統一し、琉球王朝を成立させた第一尚氏王統の、
第七代目の王が尚徳王で、第一尚氏王統の最後の王になります。
(尚徳王は、29歳で没します)

その後、金丸の第二尚氏王統へと、移行していきます。

第一尚氏王統が転覆した原因が、
尚徳王と久高ノロとのラブロマンスだったかのような物語、
なかなか興味深いです。

第一尚氏王統転覆の原因は、いろいろあったと思いますが、
結局、尚徳王の徳の無さが、金丸派のクーデターを誘発させることになった?
(第一尚氏王統そのものの徳の無さもあると思います)

尚徳王がクゥンチャサンヌルの力に頼りたかったのは、本当の話かもしれません…

450年間続いた琉球王朝ですが、第一尚氏王統は64年間で幕を閉じます。
(圧倒的に第二尚氏王統の時代の方が長い)

聞得大君が登場するのは、第二尚氏王統になってからです。

クゥンチャサンヌルとは、国司のノロという意味で、
聞得大君が登場して、ノロ制度が施行される前から、 久高にはノロ(ヌル)という存在がいたことになります。

【ヌル = 心霊を憑依する者】

映画『イザイホウ』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=hYrhxkYJuM0

映画「イザイホウ」の上映会での、琉球大学の赤嶺政信教授の、
イザイホウ・聞得大君・久高の神女、に関しての大変貴重なお話の動画です。

ドキュメンタリー映画「イザイホウ」桜坂劇場3/7トークライブ https://www.youtube.com/watch?v=rZ96KTXrl68

久高島0320
https://www.youtube.com/watch?v=JsCopvqS6Lg

PEACE


久松五勇士のお話 ~『宮古島物語』 久貝徳三著 より~ [琉球通信:OKINAWA journal]

日露戦争で日本の連合艦隊と、ロシアのバルチック艦隊が、
1905年、対馬沖で日本海海戦という、歴史的な戦いを行ないます。

ロシアのバルチック艦隊の発見の通報を、
宮古島の海人(漁師)たちが、通信施設のある石垣島まで、
サバニを漕いで伝えました。
琉球弧を代表するパドラーである、その時の五人のメンバーが、
久松五勇士と呼ばれています。

15時間、170キロの距離を漕ぎきりました。

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Photo by Toshi

僕が、宮古島に行くと、必ずお世話になる宿のお父さんが、
(お父さん、三線の名人です)
この久松五勇士の末裔にあたります。

民宿 島人
http://www.e-shimanchu.com

宿に置いてあった、『宮古島物語』久貝徳三著のコピーで、
久松五勇士のお話を知りました。

その内容を、一部抜粋してシェアさせてもらいます。

宮古には、石垣まで行けるような帆船はなかった。あるとすれば、漁師の『さばに』だけである。
…………

ひとまず、漁師による石垣までの渡航は決った。

漁師と言うと池間か佐良浜の漁師がその対象となる。さしあたり池間の漁師に当たることにした。警察署長は池間の漁師を薦めた。池間島を巡察した時、筋骨逞しい男達と浜で会ったことを思いだしたのである。

しかし、考えてみると近くの野崎村にも漁師はいる。橋口島司は、警察署長の意見を無視して松原部落に使いの者を出して、松原部落会長を島庁に呼びつけた。

何ごとかあらんと一張羅を着込み、おろしたての下駄を履いて島庁に出頭した松原部落の会長の垣花善(かきのはなぜん)は、恐る恐る島司の橋口軍六前に進み出て名乗り、うやうやしく礼をした。相手は、島の役人すべてから辣腕島司として尊敬されている人物である。

見ればいかつい顔をした島司であるが、怒りの様子はない。
…………

橋口軍六は、呼びつけた理由を手短に話し、事態の緊急なることを説明して強力を求めた。野崎村の漁師にとって、石垣島までの航行距離は想像出来ないくらい遠い。いかに国のためとは言え、いまだやったことも考えたこともない舟旅である。一人ではとても出来ることではない。何人かの者と一緒に行くことになる。誰にしようか。垣花が即答できず、あれこれ考えていると、

「国の存亡に関わる事態だというのに、なにを考えておる」

と警察署長は、今にも腰の洋剣を抜かんばかりである。

二人の目が垣花をにらみ付けていた。

断ることは許される状態ではない。

「旅順港攻撃のため…多くの日本の若者が命をかけ、ロシア軍相手に戦っているというのに、宮古の漁師どもはおのれの糧を求めることばかり考えている。この際、日本男児として忠義をつくすべきである」

と説く。

「では」

ということで、一緒に行く者の人選は、垣花が松原部落に帰ってから行うことで話はまとまった。更に、翌朝未明に舟を出すことも約束させられた。石垣から打電する電文をはじめ石垣の島司あての依頼文書は、橋口軍六が明日の朝野崎村まで持って行くという。

垣花善は、急ぎ足で我が家への道をたどった。履いていた下駄は腰で帯にはさまれていた。島司や警察署長の態度から、自分に言い付けられていることが只事ではないことは察していた。誰がどのような理由で仕掛けたが分からない戦争という化け物のために、一人では背負いきれない大きな荷物をかつがされたような気分であった。
…………

このような大きな仕事を成し遂げるには屈強さを第一に、そして気心の合う者が五人は必要だということで、兄弟二人で人選を行った。目的地まで舟を漕ぐにはそれ相当の腕力を必要とする。さらに五人全員が心を合わせて一致強力することが、絶対に不可欠だと考えられた。途中洋上で仲違いをしていてはなずべきこともなしえない。そのためには気心の知れた者でなくてはならない。
…………

このように垣花善が選んだ五人は、始めはいずれも事の重大さに尻込みしていたが、家族とも話し合いの上で石垣行きを引き受けることになった。

即ち、石垣島までの舟を漕ぐ者は、

松原部落会長  垣花善(三十歳)かきのはなぜん
垣花善の弟   垣花亀(二十三歳)かきのはなかめ
垣花善の従兄弟 与那覇蒲(二十六歳)よなはかま
与那覇蒲の弟  与那覇松(二十四歳)よなはまつ
垣花亀の友人  与那覇蒲(二十二歳)よなはかま

の五人であった。
…………

野崎とは、松原と久貝両部落をあわせた呼び名である。中に入ると確かに松原と久貝という部落がある。それを隔てる境界線は道一本である。部落外の人がみたら一緒にみえることからこの両部落を野崎と呼んでいた。そして、これはやがて松原と久貝両部落の頭文字を突き合わせて、久松と呼称されるようになる

さて、人選は決った。

その夜はゆっくり休み、夜明けと同時に出発することにしたが、出発前に五人揃って部落守護神の鎮座する『大泊う嶽』(うふどまりゃうたき)の神様に航海安全の祈願をすること、親達からすすめられた。
…………

いつもは小鳥のさえずりのかしましい大泊う嶽の森の空間に、今朝は線香の煙が漂いはっきりと聞き取れないが、神司の神様へのとりなしの言葉が線香の煙とともに、木々の梢の間を抜け、朝霧の空に消えていった。その空のどこかにいるであろう神様が、この神司の言葉を聞き届けてこれるのだ。

「行く道々は、神様が見守ってくれるのだ」

五人が大泊う嶽で航海安全の祈願を終った時には、家族によって弁当や飲み水そして着替えやみの笠まで準備されていた。しかし、荷物は軽い方がよいということで弁当と水だけをとって行くことにした。

『宮古島物語』 久貝徳三著 より引用

勇気のある五人のパドラーは、そのお役目をきっちりと務め上げ、
無事に宮古島に戻ります。

しかし、大本営には、信濃丸からの通報の方が石垣島からの通報より、
早く伝わっていた…というのが歴史上の事実とされています。
(そうではない!という説もあり)

後に(25年後)、琉球弧を代表するパドラーである久松五勇士は、
記念碑の建立やら表彰やらを国家から受けることになりますが、
当の本人達は、それほど大したことをやったという自覚はなかったそうです。

宮古島のヒーロー 久松五勇士
http://www.miyakojima-kids.net/HISAMATSU_5_YUSHI.HTML

Sailing Ship Sabani 沖縄のサバニ職人
https://www.youtube.com/watch?v=T-DK5TlKD1Q

●久松五勇士の面影…みんな男前だったんじゃないのかなぁ…

Shimoji Isamu Miyako language 下地勇 宮古久松方言
https://www.youtube.com/watch?v=BhlSWJqjnts

下地 勇 ISAMU SHIMOJI / アタラカの星 ATARAKA NO HOSHI
https://www.youtube.com/watch?v=JDN2Vi_mJkA

●外洋を漕いで渡るというのは、こういうこと…

Pa'a 'Eono 2011
https://www.youtube.com/watch?v=r-IkkiLMkIU



日本海海戦の勝因


日本の連合艦隊は、当時、世界最強といわれていた、
ロシアのバルチック艦隊に、日本海海戦で、見事に勝利します。
国力や、艦隊の規模も、大きく劣っていた、アジアの弱小国日本が、
ロシアの艦隊に勝利したのには、世界中が驚きました。

その勝因の一つは、信濃丸や久松五勇士によって、
連合艦隊が一番知りたがっていた、
バルチック艦隊の動きをキャッチできたことにありますが、
僕的には、秋山真之(あきやまさねゆき)という、
作戦参謀の存在が大きかったと思ってます。

秋山真之は、日本海海戦前には、大本出口王仁三郎にも相談しています。

【本日天気晴朗ナレドモ浪高シ】

その時歴史が動いた 「日本海海戦 参謀 秋山真之 知られざる苦闘」 (2005年)
https://www.youtube.com/watch?v=DjkFBHNA728

[1:17:46]
大二戦隊司令官、上村彦之丞氏の判断にあっぱれ!
マジで、これが日本海海戦の直接勝因です

作戦の目的と意味を、従事者全員が徹底的に理解するだけでなく、
作戦通りに事が運ばなかった時の、リカバーをいかにするかが大事である…
ということを常に説いていた秋山真之のマインドセット(魂)には、
学ぶことが多いと思うのと、やはり、彼の素晴らしいマインドセット(魂)は、
戦争にではなく、平和に向けて使うチャンスを与えて欲しかったと、
今さらですが、カムイにぼやかせていただきます。
「生還の見込みの無い作戦は立てない」を信条に日露戦争に臨み日本海海戦では自ら編み出した「丁字戦法」によってバルチック艦隊を打ち破る。しかし、どんなに良い作戦を立てても敵味方に多くの犠牲者が出てしまう現状に悩み苦しむ

(秋山真之)

坂の上の雲 (テレビドラマ) -Wikipedia より引用

坂の上の雲 (テレビドラマ)では、秋山真之を、モックン(本木雅弘)が演じています。

坂の上の雲   日本海海戦   Turning Point Full HD
https://www.youtube.com/watch?v=P5ze4-iFEL4

日本海海戦.
https://www.youtube.com/watch?v=OD_5eARbxZk

ぶっちゃけ、この日本海海戦の勝利で調子に乗った日本海軍は、
制海権に執着し、後に戦艦大和武蔵という、
モンスター級の戦艦を作り出すことになります。
が、太平洋戦争では、戦闘機という全く新しいトレンドが発生し、
海上でも制空権を握った方が、戦いに勝利するという、
新たな時代の流れに大敗することになります。
(なんとも皮肉なカムイのいたずら…カムイの意志?)

戦(いくさ)の場(フィールド)が、
2次元(2D)から3次元(3D)になった瞬間に、
武士道騎士道は、過去のものに成り果てた…
(その時点で、戦争はこの星の上から削除されるべきだった)

PEACE


映画「原郷ニライカナイへ・比嘉康雄の魂」 ~母性原理と父性原理~ [琉球通信:OKINAWA journal]

『風になった大重潤一郎と未来へ原点回帰する旅』
~故大重潤一郎監督追悼祭りin沖縄~
http://www.kudakaodyssey.com/

2016年7月21日(木)の、初日に行ってきました。
初日のオープニングに上映される、

映画「原郷ニライカナイへ・比嘉康雄の魂」

がお目当てでした。

比嘉康雄氏の遺言とも言える多くのメッセージを、
大重潤一郎監督が記録した映画で、大重潤一郎監督は、これがきっかけで、
映画「久高オデッセイ」を製作することになったという、
兎に角、観たくて観たくてしょうがなかった映画がやっと観れました。

原郷ニライカナイへ-比嘉康雄の魂- 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=A_hYGZE6B24

比嘉康雄氏のメッセージの合間に、「うんうん…」みたいな感じで、
撮影中であろう、大重潤一郎監督の声が小さく聞こえてきます。

比嘉康雄氏が、琉球弧の古層文化の凄さに気付かされたのは、
宮古島の狩俣の祖神祭(ウヤガン)だったそうです。
相当ショック受けた経験をされたことを、
この映画の中で、熱く語っておられます。

宮古島(狩俣部落)の祖神祭(ウヤガン)
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/uyagan.pdf

琉球弧の祭祀は、ヤマトゥ(内地)とは大きく異なり、
女性が中心です。
久高島のイザイホーしかり、宮古島のウヤガンしかり、
男性は、ほぼ活躍の場所はありません。

比嘉康雄氏は、この祈りのスタイルを母性原理と呼んでいます。
相反する、

【父性原理の象徴は戦争である】

というところで、僕は思わず「う~ん」と唸ってしまいましたが、
映画の中では、大重潤一郎監督が同じく「う~ん」と唸っている声が聞こえました。
(シンクロしました:笑)

久高島に関しても、表面的に琉球王府からコントロールされていたけれど、
琉球王府のコントロールできない領域が存在し、
それが、久高島に深く根付いた、本来の祭祀・祈りの世界である。

本来の祭祀・祈りの世界が、目の前に形となって現れている、大変貴重な場所である…
という、僕にとっては新たな視点を投げかけてくださって、マジで観れてよかったです。
(新たな視点、他にも、たくさんもいただけました)

まえがき 古代祭祀が残った島

人々は、魂の不滅を信じ、魂の帰る場所、そして再生する場所を海の彼方のニラーハラーに想定し、そこから守護力をもって島の聖域にたちかえる母神の存在に守護をたのんでいる。この「母たちの神」は、<生む><育てる><守る>という母性の有り様の中で形成された、つまり、内発的、自然的で、生命に対する慈しみがベースになっている<やさしい神>である。この久高島の祭祀世界を深く見ていくなかで、私は、母性原理の神のもつ根本的な意味を考えさせられることになった。

久高島は沖縄本島から比較的近い離島である。今でこそ定期船が就航し便利になったが、戦前は定期船などなく、病気、買物など特別な時に漁師のサバニという刳り船を頼んで行くという状態であった。つまり島の独自性が----島人にとっては不本意であったかもしれないが----保持されることになった。また久高島は琉球開闢の祖神が降り立った島として首里王府から位置づけられ、島人もこれを誇りにした。そのため、とくに近年の皇民化教育の中で母性原理の祭祀世界が近代化をさまたげるものとされたなかにあって、久高島は自信をもって祭祀をつづけてきたのである。

それに、生業が農業漁業であって、自然を対象にしていたことも重要である。そうして最も大事なことは「母たちの神」を信じてこれを支えた女性たちがいたし、今もいるということである。

このような精神文化の祖型が残ったということはすばらしいことである。この母性原理の文化は、父性原理の文化がとどまることを知らず直進を続けて、破局の危うさを露呈している現代を考える大切な手がかりになるであろう

いまや残してくれたシマの人々に感謝しなければならない。

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『日本人の魂の原郷 沖縄久高島 (集英社新書)』 比嘉康雄著 より引用

映画「原郷ニライカナイへ・比嘉康雄の魂」の上映後は、
会場を移動して、沖縄大学の学生の方々も参加しての…
(授業の一環?)
映画「久高オデッセイ第一部 結章」の上映会でした。
僕は、2007年に観ているのですが、内容を全く覚えていない自分に、
老化現象を感じました。

【予告編】映画『久高オデッセイ第一部 結章』
https://www.youtube.com/watch?v=JLQp2rUwPFY

イベント自体は、3日間あって、初日もまだまだプログラムは続くのですが、
僕は、ここらでおいとましました。

帰る前に、須藤先生に、「監督にお線香をあげていってよ」って言われ、
今回のイベントのために、来沖されてる監督の遺骨に、
一番最初にお焼香させていただきました。

監督~、カムイとなって、このイベントを、須藤先生や比嘉真人さんを、
これからも、お守りください…
(そのくらいのことは、してくれてもええやんかと思う)

映画 『黒 神』 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=KCK82z_IkDc

映画 『光りの島』 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=ScKtcVBoeFI

映画『久高オデッセイ第三部 風章』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=ZIczVVB6QO0

PEACE


聞得大君即位式「お新下り」 ~琉球独自の信仰と神女の組織~ [琉球通信:OKINAWA journal]

琉球独自の信仰と神女の組織

神女の頂点に立つのが「聞得大君」と呼ばれる神女です。聞得大君は琉球語で「チフィジン」あるいは「チフィジンガナシ」と言いました。「ガナシ」とは「加那志」と書き、身分の高い人に付ける接尾美称です。聞得大君には、国王の娘や配偶者(お妃さま)、あるいは国王の母親など国王に近い女性が就任しました。

聞得大君の下には「首里大あむしられ」「真壁大あむしられ」「儀保大あむしられ」という三人の神女がいました。ちょうど、国王の下に三司官がいるように、聞得大君の下にも三人の大あむしられという高級神女がいたわけです。

彼女たち三人をまとめて「三平等(みひら)の大あむしられ」と呼びます。それぞれの大あむしられが首里の三つの行政区(三平等)と三つに分割された琉球国内の各地域を管轄していました。彼女たちには屋敷が与えられていて、それぞれ「首里殿内(すんどうんち)」「真壁殿内」「儀保殿内」と呼びました。三平等んお大あむしられの下には大阿母、ノロと呼ばれる神女がいて、村々の祭祀行事をつかさどっていました。
…………

聞得大君にはこのような国王のオナリ神の要素を持ちつつ、公務員的な要素もありました。たとえば、聞得大君に就任すると知念間切の総地頭職に任ぜられたため、聞得大君のことを知念按司加那志とも言い、給与もありました。

聞得大君は城外に屋敷も与えられていました。首里の汀志良次村(てしらじむら)にある聞得大君御殿です(聞得大君御殿は何度も移転を繰り返していますが、最終的に汀志良次村になりました)。現在は那覇市立首里中学校のグラウンドになっており、正門前に史跡標示板が設置されています。

聞得大君が祀っていた神様は女性の神「弁財天」です。七福神の一人として知られるキレイな女性の神ですが、琉球の弁財天は違います。手が六本、顔が三つあって、悪い心を抱く者を罰する恐ろしい異形の神でした。これは、中世日本の宇賀弁才天の系譜をひくもので、琉球の弁財天は特に両手に太陽と月を持っているのが特徴で、これは日本にもないそうです

戦前までは聞得大君御殿の祭壇には弁財天の描かれた掛け軸が掛けられていて、その前には三つの石の香炉と火鉢が置かれていました。弁財天とともに太陽と月、白い鳳凰と馬が描かれていて、聞得大君はこの祭壇で祈りを捧げていました。

『知れば知るほどおもしろい 琉球王朝のすべて:新装改訂版』 上里隆史著, 喜納大作著
より引用

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弁才天坐像(宇賀弁才天) 滋賀県 竹生島・宝厳寺(1565年 浅井久政奉納)

弁財 -Wikipedia より引用

沖縄の祈りの世界は、女性中心です。
(ヤマトゥとは真逆です)

オナリ神信仰というのが根底にあって、兎に角、
「女性には特別な霊力がある」というのが大前提で成立している祈りの世界です。

卑弥呼を祈りの頂点としていた、邪馬台国の祈りのスタイルと、
聞得大君を頂点する、琉球王国の祈りのスタイルは、非常によく似ていると思います。
(やはり、深いつながりがあって、継承してるのだと、僕は勝手に思ってます)


聞得大君即位式「お新下り」


2012年の南城市のイベントです。

聞得大君即位式「お新下り」100人行列(5/5)
https://www.youtube.com/watch?v=UHRjPX_gPXw

琉球王朝、最高神官の就任儀礼「聞得大君のお新下り」制作発表
https://www.youtube.com/watch?v=3zF9WnUXmfU


王国時代の斎場御嶽


文字通り王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が管理した。聞得大君の就任儀式「御新下り(おあらおり)」が行われた御嶽でもある。かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であり、斎場御嶽では庶民は入口の御門口(うじょーぐち)を越えて進入することは許されず、国王であっても、御門口より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったという。

斎場御嶽(せーふぁうたき/サイハノうたき) -Wikipedia より引用

斎場御嶽 お新下り(おあらうり)ダイジェスト版
https://www.youtube.com/watch?v=bQGcy2BFxdU

世界遺産 斎場御嶽 参拝の心得(いま 斎場御嶽へ)
https://www.youtube.com/watch?v=VMb2kDcevRc
聞得大君ぎや/降れて 遊びよわれば/天が下/平らげて ちよわれ

『おもろさうし』テキストデータベース より引用

ちなみに、本物の聞得大君の就任式は、琉球王朝なき後、
今でも、続いているそうです…

PEACE


沖縄島のはじまり ~アマミキヨがつくった九つの聖地~ [琉球通信:OKINAWA journal]

沖縄島のはじまり

むかしむかし、この世に沖縄島がなかったころのお話です。神々の住む世界にアマミキヨという神がいました。

ある日のこと、アマミキヨは天上界でいちばん位の高い天帝によばれ、

「この空の下に神々が住むべき神聖な場所がある。だが、そこはまだ島になっていない。これからおりていって、りっぱな島をつくってまいれ」

と、命じられました。

命をうけたアマミキヨはさっそく天上界から舞いおりて、外界のようすを見に出かけました。

そこは、心のやすまる美しいところですが、東の海の波が西へ打ち越し、西の海の波は東の海に打ち越すというありさまでした。

アマミキヨは天上界にもどると、天帝のまえに進み出てうやうやしく申しあげました。

「美しい場所ですが、いつも波に洗われ、住めるようなところではありません、石と土、そして草と木をくだされば、島づくりをはじめたいと思います」

天帝は、すぐに必要なだけの材料をアマミキヨにあたえました。

アマミキヨは、天の荷車に材料を乗せて天下り、さっそく島づくりにとりかかりました。まずはじめに、国頭(くにがみ)の辺戸(へど)に安須森(アスムイ)をつくり、次に今帰仁(なきじん)のカナヒヤブをつくりました。それから、南にくだって、知念森(ちねんムイ)斎場御嶽(セーファウタキ)藪薩(やぶさつ)の浦原(うらはら)をつくり、玉城(たまぐすく)のアマツヅ、久高島(くだかじま)のコバウ森(ムイ)をつくりました。さらに、首里森(スイムイ)真玉森(マダマムイ)をつくり、島々のあちこちにたくさんの森(ムイ)や御嶽(ウタキ)をつくりました。

こうしてアマミキヨの手によって九つもの聖地が生まれ、美しい沖縄島ができあがりました。

『沖縄の由来ばなし』 文:徳元英隆 絵:安室二三雄 より引用

アマミキヨがつくった九つの聖地


①安須森(アスムイ)
②カナヒヤブ :今帰仁グスク
③知念森(ちねんムイ):知念グスク
④斎場御嶽(セーファウタキ)
⑤藪薩(やぶさつ)の浦原 :薮薩御嶽(やぶさつうたき)
⑥玉城(たまぐすく)のアマツヅ :玉城グスク
⑦久高島(くだかじま)のコバウ森(ムイ):クボー御嶽(くぼーうたき)
⑧首里森(スイムイ)
⑨真玉森(マダマムイ)


琉球開闢七御嶽


琉球の神話では、日の大神(天にある最高神、日神、天帝)が開闢の神アマミキヨ(アマミク)に命じて島作りをさせた。アマミキヨはこの命を受け、沖縄本島を作り、そこに9つの聖地(出典「中山世鑑」)7つの森(出典「聞得大君御規式の次第」)を作ったとされる。現在では、アマミキヨによって作られた聖地のうち7つが、琉球開闢七御嶽として語り継がれ、琉球の信仰においてもっとも神聖な御嶽として位置づけられている。

・安須森御嶽(あすむぃうたき):国頭村辺土
・クボウ御嶽:今帰仁村今帰仁グスク内
・斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
・薮薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
・雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城、玉城グスク内
・クボー御嶽(くぼーうたき):南城市知念(久高島)
・首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき):首里城内

御嶽 -Wikipedia より引用

「アマミキヨがつくった九つの聖地」と、「琉球開闢七御嶽」とを擦り合わせてみると…

今帰仁は、何故か、②”カナヒヤブ”ではなく、”クボウ御嶽”がエントリーされています。
テンチギの御嶽(カナヒヤブ。開闢2番目に作られた御嶽):今帰仁グスク内

御嶽 -Wikipedia より引用

●③知念森(ちねんムイ)が外されています。(-1)

●⑧⑨は、首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき)としてワンセットとして数える。(-1)
(真玉森に関しては、諸説ありますが、今回はスルーさせてもらいます)

「アマミキヨがつくった九つの聖地」から、●上記の2項目をマイナスし、
②”カナヒヤブ”を、”クボウ御嶽”にすると、「琉球開闢七御嶽」ができあがります。

【何故、7つになったのか?】

現在、参拝するのに都合がいい場所をセレクトした結果なのか?
②カナヒヤブ、③知念森(ちねんムイ)が外されているのが、今の僕には不明です…
(参拝NGなんやろか)

辺戸岬から安須森御嶽
https://www.youtube.com/watch?v=tXYbM2uOTFM

玉城城跡を空撮
https://www.youtube.com/watch?v=EKv-mV1S77I

久高島0320
https://www.youtube.com/watch?v=JsCopvqS6Lg

PEACE


沖縄の精霊の代表「キジムナー」には両親や弟がいる? [琉球通信:OKINAWA journal]

沖縄の精霊の代表として、今や全国区の人気を誇る、
「キジムナー」には、両親や弟がいます。

樹齢100年を越えるガジュマルデイゴには、
「キーヌシィ(木の精)」という精霊が宿ると信じられています。
「キーヌシィ」は、満月の力で子供を生みます。
その子供が「キジムナー」です。

満月と「キーヌシィ」が「キジムナー」の両親になります。

「キジムナー」は、悠久の時を経て、様々な経験を重ね、
やがては、「キーヌシィ」へと成長していくそうです…


キジムナー


人間が大好き。友達になればお金持ちになるし、困ったときはすぐに助けてくれる。でも、一度友達になるとしつこくつきまとわれ、夜も昼もなくいっしょにいなきゃならない。

●どこにいるの?
ガジュマルやアコウ、フクギ、センダン、デイゴなど古い木に宿る精霊。

●どんな姿?
子どもの様な姿で3歳から5歳くらい。なかには中学生くらいに見えるキジムナーもいる。しかし、キジムナーの本当の年齢はだれも知らない…赤い髪の毛、肌の色はガジュマルの表皮をはいだときの樹皮に近い赤銅色。顔が大きく、がっしりした筋肉質な体に短い足が特徴。手足の指は長く鋭い爪を使って軽々と木登りする。木から降りるときは頭から、登るときはお尻から登る。キジムナーのにおいは葉っぱと土を混ぜたにおいで意外とさわやかなにおいだという。

●得意ワザ
相撲が得意。牛と相撲をとったり、どんな強い横綱でもヒョイッと持ち上げて遠くへ投げとばすほど。そして素潜りも得意。息を止めて深い海に潜っては魚や貝をとってくる。畑仕事も得意。しかも、キジムナーは植物と話ができる。枯れそうな植物にキジムナーが語りかけるだけで回復し、たわわに実をつける。

●苦手
キジムナーの祖先がタコにからまれて溺れそうになって以来、タコが大嫌いになったという。沖縄では、赤ちゃんのおしゃぶりの代わりにタコの足をしゃぶらせる。これはキジムナー対策といわれている。また、動物のおならと、ねぼすけのキジムナーの眠りを鳴いて妨げる鶏が大嫌い。

●好物
魚の目玉が大好き。特に左目が好きで海で左目のない魚がいたらキジムナーの食べ残し。

『沖縄マジムン図鑑―みんなのまわりにいる、あんなマジムン、こんなマジムン』

比嘉淳子著 より引用


アカナー


一説ではキジムナーの弟だといわれているが、アカナーは穏やかな性格で、キジムナーのように魚の左の目玉が好物という偏食家ではない。魚介類では蟹が好物で、果物では桃が好物。キジムナーに比べて遭遇率が低いのは、アカナーは目立ちたがりなキジムナーと違って、人見知りするマジムンだから。マジムンのなかでも目立たず、ひかえめで単純な純情派。そのうえ心やさしいマジムンだ。

●どこにいるの?
月に住んでいる。沖縄では月に見える影はウサギではなく、マジムンの「アカナー」桶を担いだ姿だといわれている。通常は月で生活しているが、気が向いたときに地上に降りてくるらしい。地上に降りてきて魚をとったり、人が遊ぶのを影から見ている例が報告されている。地上を楽しんだアカナーはアコークロー(夕刻)になれば月へ帰るという生活スタイルのようだ。

●どんな姿?
サルのような顔で全身赤い毛で覆われているという。体はキジムナーより小ぶりで手足が長い。

●アカナーの逸話
大昔まだ沖縄に人が住んでいないころ。天の神様は土で人を作り、沖縄の地に住まわせた。しかし、人間になりたてなので、食べ物を作るすべもなく、裸のままおなかをすかせてぐったりしていた。そんな姿を月から見ていたアカナーは餅を作って、地上に落として人間を養っていたという。

アカナーは新月のときに地上に降りてきて、作物がたくさん実るように土にマジムンパワーを注いでいるそうだ。

沖縄マジムン図鑑―みんなのまわりにいる、あんなマジムン、こんなマジムン

比嘉淳子著 より引用

僕は、キジムナーの弟の、アカナーがけっこう好きです。
普段は月に住んでいる…というのが、なんとも素敵。
(こういう生活をしてみたい)


ブナガヤ


「キジムナー」は沖縄本島のあちゃらこちゃらにいますが、
「ブナガヤ」は、北部の大宜味村に限定した精霊です。
ブナガヤは唄を歌うのですが、心の綺麗な人にしか聞こえないそうです。

沖縄紅型絵本『ぶながやのみた夢』は、大宜味村の道の駅で購入しました。
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その夜、
キキとカカは、
ヤンバルクイナに のって
世界中に「平和のタネ」をまく
夢を みました。

沖縄紅型絵本『ぶながやのみた夢』 たいら みちこ作 より引用


映画「ウンタマギルー」


1989年の高嶺剛監督の映画「ウンタマギルー」には、「キジムナー」が登場します。
宮里榮弘さんが演じる「キジムナー」、なかなか渋いです。
僕は、この映画大好きです…つうか高嶺剛監督の作品はどれも大好きです。
(独特の空気感が大好き)

ウンタマギルー【VHSrip】
https://www.youtube.com/watch?v=KjmW0ga5b4k

Okinawan Childai /Koji Ueno 上野耕路 ウンタマギルー
https://www.youtube.com/watch?v=dYxPJpsrIRQ

宮里榮弘さんの鎖ガマ
https://www.youtube.com/watch?v=sj79e-tyG08

PEACE


『赤椀の世直し』名護博先生のお話 ~2012年12月28日@普天間宮~ [琉球通信:OKINAWA journal]

2012年12月28日、沖縄の普天間宮での「ほのぼのマルシェ」
というイベントでの名護博先生のお話を、書き起こしてシェアします。
(ちなみに、このイベントのコーディネーターは友人です)

名護先生は、
『邪馬台国総合説赤椀の世直し―沖縄・奄美は原初ヤマトの生みの母胎であった』

という本を書かれておられ、僕は何度かお会いしたことがあります。
初めてお会いしたときに、名護先生の著書にサインをしていただきました。
(この本は、2008年に沖縄に引っ越してすぐにゲットしています)

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良き出会いに感謝

Photo by Toshi

名護先生の唱えている説は、ヤマトゥの学者の方々とは、
アプローチ・発想が根本的に異なります。
ぶっ飛んでて、ついていけない方が多いと思います。
(理解するには、それなりのセンスが必要?)

【沖縄は、(元伊勢のその元になる)大元伊勢…】

兎に角、ものすごく貴重なお話、一部抜粋して、文字に起こしてみました。
名護先生お得意の、「えー」とか、「あのー」は省略して、
若干、僕なりの意訳も入ってますが、大意はとらえていると思いますので、
ご了承のほどを、よろしくお願い致します。
(このイベント、お子さんが多いので、雑音が多くて先生が可哀想)
日本本土のことを沖縄ではヤマトゥと言ってますが…

このヤマトゥという言い方は、沖縄の古い神謡にいっぱい出てくるんですね…
ヤマトゥ、山城…山城っていうのは京都南、京都南部の方…

沖縄の神事をする、いわゆるカミンチュ(神女)…
カミンチュには二種類ありますね…
いわゆるユタさんと、それからノロさん…
このノロさんたちが歌う謡、ずっと先祖から伝わってきた謡を歌いますけれど…
特徴的なことは、ヤマトゥ、山城といえば、もう日本の中心地です…
ここで歌う謡…例えば、神祀りをしますよね、神様を呼ぶわけです…
この神様は、どこで生まれた神様かというのを、
平敷屋の神謡、エイサーで有名な平敷屋の…
そこの神謡を見ますと…これから神様を呼ぶんだけども、この神様は、
どこで生まれた方であるか、ということをを述べるわけです…
なんと、それはですね、ヤマトゥの「ふその御嶽」、へそですね…
ヤマトゥの中心の国で生まれた方であると…
この方を神様として崇めるのは、もう沖縄だけになった…
でも、私達の魂の親筋だから、この神様を呼んで、
お祀りをしましょう、という謡を歌います…

沖縄の神様といえば、アマミコ…アマク、シロミク、対で歌いますけど…
沖縄の神謡の特徴はですね、ヤマトゥ、山城、そして、赤椀、黒椀、
アマミコ、シロミコ、対で歌うわけです…
例えば、女性の神様でも、これを歌う時、
これに代わる男の神様の名前を出して、補うわけです…

アマミコ、シロミコという男女の神様が沖縄の国を作ったと…
神謡上、そうなってますが、実際は、謡の都合でそうなったんで、
女性神というのが沖縄の基本の宗教、思想なわけです…

日本の中心で生まれた方が、私達のアマミコ様であると…
これは、ヤマトゥでは信仰されなくなった神様であるわけです…
こういう神様が、ヤマトゥにいますでしょうか?
…………

2000年前に、沖縄でしか採れない海の巻き貝…
これをヤマトゥから採りにきて、持って帰って、ヤマトゥ中に拡げて行く、
ということがあったらしい…ということがわかってきたんです…

沖縄の神謡を、全部並べて見てみると、
このヤマトゥから沖縄の貝を採りにきた人達の中心人物が、
沖縄の、今、信仰されている、沖縄を作ったという神々の原型らしい、
ということに気が付いた…

この貝です、ゴホウラと言います…
…………

ヤマトゥの考古学者は、この貝を知っています…
ところが説明をしないのですね…
唯一説明できるのは、沖縄のカミンチュしかいない…

ヤマトゥでは滅びた神々が、昔、沖縄に来て、
旧暦の2月に来て、奄美に集まる…
アマミコというのは、奄美に集まった人々…

旧暦2月に、ヤマトゥから小さい帆掛け舟に乗って来る…
奄美の神迎え、旧暦の2月にありますが、
北風に乗って、神々が舞い降りて来る…
…………

2ヶ月間過ごして、南に送ります、沖縄に来るわけですね…
…………

沖縄の海神祭、海の神様を、5月に迎えて7月に送ります…
海の神様でもあるわけですね、ヤマトゥから来た人達は…
これ(ゴホウラ貝)を持って帰る…

ヤマトゥの中心に国ができます…
国ができた印に、この貝が使われます…
ヤマトゥの学者たちは、これを説明できないんですよね…

非常に独特の形をしていますから、この貝でしかできない形ができる…
一つは勾玉
…………

この形を翡翠に彫り込んで勾玉にした… 勾玉は、元は、意味はゴホウラである…


【2012.12.28】名護博先生「赤椀の世直し」
https://www.youtube.com/watch?v=ko-Ue5eSkM4
より書き起こし(一部抜粋)

この後、邪馬台国の卑弥呼が倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)であり、
沖縄の人達が、アマミコとしてRESPECTしていたお話や、
ゴホウラ貝の形は、前方後円墳のオリジナルであるお話、
玉城グスクには、ゴホウラ貝の形をあしらった門と御嶽がある、
という、とっても興味深いお話に発展していきます…

以前はあった、名護先生の『赤椀の世直し』関連のオフィシャルサイトは、
現在、どこにもありません…

だから、この動画は、インターネットで共有できる、
名護先生の唱えている説に関しての、たいへん貴重な動画です。

比嘉康雄さんの、母性原理と父性原理のお話は、
僕の中で名護先生のお話とリンクします。
(ウチナーは母性原理の世界で、ヤマトゥは父性原理の世界です)

原郷ニライカナイへ-比嘉康雄の魂- 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=A_hYGZE6B24

沖縄のご神事は、女性中心であり、必ず神謡がセットになっています。
(琉球弧全体に共通するスタイル)

神謡の歌われている内容をベースに、ゴホウラ貝という沖縄でしか採れない貝が、
ヤマトゥのあちらこちらで発見されたという事実を考慮して、
名護先生は、独自の説を唱えられています。
(沖縄からの視点というのは、やっぱり、無視できない?)

僕は、沖縄(ウチナー)だけ、日本(ヤマトゥ)だけという、
それぞれを切り離して、古代の歴史を考えるのは、不自然だと思います。
両者をリンクさせて、初めて見えてくることがあるわけで、
そのあたりのことが、いろいろと気になりだした、今日この頃です。
(もちろん、まだアメリカーって国がない時代)

すべては、平和な世の中を創造する、という想いから…

PEACE


沖縄・高江ヘリパッド問題 ~映画「標的の村」三上智恵監督のメッセージ~ [琉球通信:OKINAWA journal]

私がこれを映画にするきっかけになったのは、去年(2012年)の12月に「標的の村・一時間バージョン」を放送した時にですね、ローカルでしか放送できなかったんです、いろいろ努力はしたんですが。で、これに対して、沖縄の局がちゃんと伝えてくれないと、私たち、加害者になりたくないのに、知らなくて、加害者になるのはもういやだ、という意見が、けっこう来たんですよ。だから、そこからすると、知りたい、知らないことで誰かを痛めつけて、その上で生きていたくはないと思う、まともな日本人は、まだまだたくさんいると思うんですね。で、どっちかっていうと、逃げているのはメディアだったんじゃないのかなぁと。何か過激なことをしている人たちを取り上げると、自分が責任を取らなければいけなくなるじゃないですか。で、たくさん、こう、責任を取らなければいけない立場の人たちが、それぞれ、少しずつ逃げて行くので、大事な問題が伝わらなくなったと、私は思っています。たぶん、望む答えじゃないと思うんですけど、私はね、一人一人がズルをしているから、伝わらないんだと思います。
…………

やっぱり沖縄は、そんな戦争の島としてね、永遠に生きていかなきゃいけない、わけないんですよ。わけないから、その日米のいろんな戦争のものをね、ずっと置いておかれていることは、やっぱり異常なことだし、で、利益受けてる人いるだろうって、よく言われますけど、利益受けてる人が被害も同時に受けてるんだったらね、一つ話はわかるんですが、利益を受ける人と被害を受ける人は違っているのであれば、両方沖縄の人だからいいでしょ、って外から言われる筋合いは全くないんですよ。だから、被害だけ受けている、ま、女性や子供やね、そういう被害を受け続けている人がいるのに、でも、基地があった方が、経済的にいいでしょ、っていう違う次元の話をされてもそれはもう、違う、としか言いようがない。で、沖縄側に立ちすぎると言われても、日本の利益と、東京を中心とした日本の利益と沖縄の利益が一致しないときにですね、間に立つって、何の意味もないと思います。

映画で戦争を考える~標的の村~
https://www.youtube.com/watch?v=94q0rsTuutU

[21:58] 「標的の村」三上智恵監督 のメッセージ より抜粋(書き起こし)

黙殺された抵抗~映画「標的の村」
https://www.youtube.com/watch?v=FFwp6pRl6CY

標的の村
https://www.youtube.com/watch?v=oznHQOMfcn0

映画『標的の村』公式サイト
http://www.hyoteki.com

高江・通行妨害禁止訴訟の控訴審判決に対する声明
http://takae.ti-da.net/e4972906.html

高江スラップ訴訟 判決の問題点と今後の課題(弁護士喜多自然) なぜたたかえるのか(ヘリパッドいらない住民の会 伊佐真次)
http://okinawagodo.org/blog/379/

「標的の村」三上智恵監督はなぜ琉球朝日放送を辞めざるをえなかったのか
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140704-00037092/

 

ベトナム村


Targeted Village / 標的の村
https://www.youtube.com/watch?v=raJ8vTr8r4c

[11:50] ベトナム村 1960年代 沖縄の演習場内に造られたベトナム戦の襲撃訓練に使った村
今から48年前、高江の近くに「ベトナム村」と呼ばれるアメリカ軍のゲリラ訓練施設があり、ベトナム風の家や家畜も飼われ、訓練の時には高江区民がベトナム人の役をさせられたという歴史がありました。

検証動かぬ基地vol.99 高江にあった「ベトナム村」とは より引用

img552becccd2337-400x278.jpg 北部海兵隊訓練場(当時)のゲリラ戦訓練施設「ベトナム村」。先端をとがらせた丸太を突き立て、外部からの攻撃に備えるベトナム現地の様子を模したとみられる様子が分かる=1964年ごろ、横堀洋一氏撮影

「ベトナム村」内部写真発見 60年代、米軍北部訓練場 [琉球新報] より引用

 

銃剣とブルドーザー2016


2016年7月10日、参議院選挙が終わり、
沖縄では現政権の立候補者が落選するやいなや、
翌日から、高江への、日本政府からの攻撃が再開されました。

選挙翌朝の作業強行に怒り 高江のヘリパッド建設 国の柵設置巡り緊迫
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-315099.html
[琉球新報]

翁長知事「これが国のやり方か」 沖縄・高江のヘリパッド作業
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-315106.html
[琉球新報]

翁長沖縄知事「不意打ち的だ」と批判 高江ヘリパッド資材搬入で
https://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=177809
[沖縄タイムス]

2013年7月の参議院選挙の翌日にも、高江への、
日本政府による攻撃が再開されています。
沖縄平和運動センターの山城博治議長は「選挙が終わるたびに市民排除を強行することは『県民がいくら意思表示しようと、国策のため政府は容赦しない』という姿勢の表れだ」と指摘した。

沖縄、基地反対市民排除 3年前も選挙翌日 [琉球新報] より引用

沖縄で、何が行なわれているのか、知らない人は、この国には山ほどいると思います。
沖縄に関して、無責任は発言をしてる奴も、山ほどいます。

右や左のだんなさま(工作員)がどうのこうのではなく、
現場でリアルに起こっている、事実を知ってもらいたです。
僕は、まず、それを多くの人たちへ望みます。

すぐに、何かの行動を起こしてください、とは言いません。

【兎に角、知ってください】

知らないと、修正する方向や方法すら、見えてきません。

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Photo by Toshi

オスプレイ 沖縄タイムス総まとめ
http://www.okinawatimes.co.jp/special/?file=osprey_matome

ちなみに、2012年10月1日に、オスプレイが沖縄にやってきましたが、
僕は、まだ、見たことがありません…
(糸満では、まず、見ることはない)
沖縄本島南部の空を、騒がしく飛んでいる飛行物体は、
ほぼ、自衛隊関係のものです…

沖縄には、リゾートや観光で来るのではなく、
平和を祈りに来てほしい…

PEACE


「沖縄の魂の行方」 嘉手苅林昌 ~神の島・久高島ミュージックキャンプ~ [琉球通信:OKINAWA journal]

近藤等則 (エレクトリック・トランペッター)

人間という生き物は奇妙だ。
人間と同じような声帯をもっているのは、地球上の生物では鳥類のみ。人間と鳥だけが歌うことが出来るのだ
…………

嘉手苅林昌さんは生命力そのものに衝き動かされて唄いつづけた稀有なシンガーだったのではないだろうか。林昌さんは“沖縄の魂”とかに限定されるのではなく、地球の魂、宇宙の魂そのものとなって唄いたかったにちがいない。逆に言えば“沖縄の魂”は地球の、宇宙の魂そのものであるはずだ。だって沖縄の島を海を、沖縄の人達が作ったはずがない。

july 26 2005 登戸にて

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CD 「沖縄の魂の行方」 嘉手苅林昌 (ブックレット) より引用

このCDがリリースされたのは、2005年10月1日です。

CDがリリースされたのは知っていたのですが、
どういうご縁か、久高島での嘉手苅林昌さんのライブ盤を、
ちょうど一年後の、2006年の10月に、初めて上陸した、
久高島のフェリー乗り場の売店で、ゲットすることになりました。

「あ、あのCD売ってるやんか」って感じでした。

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Photo by Toshi

 

神の島・久高島ミュージックキャンプ


1996 神の島・久高島ミュージック・キャンプ

1996年10月。沖縄の最高の聖地で、久高島ミュージック・キャンプは開催された。
「久高島」という沖縄の人々にとっても特別な場所でのコンサートは、久高島青年会、近藤等則ファンが中心となり、実現できた。その過程には不思議な出来事が数多くあったがその中で体験したことは、断言することはできないのだが、「神」か、あるいは「今を同時にくらす祖先」の貴重なアドバイスで実現したと私は感じる。それが「久高島ミュージック・キャンプ」だった。

“嘉手苅林昌・沖縄の魂の行方”

制作プロデュース 知念満二

「沖縄の魂の行方」ホームページ より引用

1996年10月12日(土)、満月の夜に、久高小中学校のグラウンドでコンサートが行われました。

出演:嘉手苅林昌、近藤等則、嘉手苅林次、比嘉いずみ

CDには、「久高島ミュージック・キャンプ」以外の唄も収録されています。
(大城美佐子先生は、CDだけに登場しています)

嘉手苅林昌さんの唄三線に、近藤等則氏のトランペットが絡むのが、
このCDを、他とは違う、独特の雰囲気なものにしています。

僕個人的には、「久高島ミュージック・キャンプ」のオープニングの、
比嘉いずみさんの「つらね」がお気に入りで、
そのまま、スローな「かいされー」に流れていくところは、
(すべての琉球民謡を知っている&聞いたことがあるわけではないけれど)
他のどの琉球民謡の世界よりも、突き抜けて、カッコイイです。

【嘉手苅林昌さんの数ある唄の世界でも、ここが一番好きです】
ねる木どぅやしが 三筋糸かきてぃ弾ちば悲しさん 月に流ち 戦世ん終わてぃ みるく世とぅ思みば国ぬユサユサぬ 果てぃん無らん

「沖縄の魂の行方」ホームページ より引用

スローな「かいされー」、最高で~す。

嘉手苅林昌 CD「沖縄の魂の行方」より(1) つらね ~ かいされー
https://www.youtube.com/watch?v=cisL2tYqBbE

嘉手苅林昌 CD「沖縄の魂の行方」より(2) ナークニー
https://www.youtube.com/watch?v=RAzVyMBK5LI

嘉手苅林昌 CD「沖縄の魂の行方」より(3)「夢のような一夜」
https://www.youtube.com/watch?v=zEo1UwiFXzI

嘉手苅林昌 CD「沖縄の魂の行方」より(4) 唐船ドーイ
https://www.youtube.com/watch?v=cNr5jmPpzdA

嘉手苅林昌 CD「沖縄の魂の行方」より(5) 恋しアルゼンチン
https://www.youtube.com/watch?v=Awvj0Qy0cWA

ちなみに、CDのジャケット写真は、
久高へのフェリーの上での写真だと思っていたのですが、
実は、北谷で撮影されたものでした。

嘉手苅林昌さん、1978年の最期のイザイホーを観られてます…

PEACE


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