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明日一緒に遊ぼうよ ~ナナオサカキさんの詩より~ [琉球通信:OKINAWA journal]

明日一緒に遊ぼうよ

那覇の街を見下ろす小高い丘
昔々ここは浅い海 珊瑚の森がありました
魚と貝 竜宮城もありました
やがて海は退き 残されたこの丘を
島人はケラマチージと呼びました
長い間 島人は平和に暮らして来ました
ある日 北と東から 心無い軍隊がやって来て 戦いを始めます
ケラマチージを攻める者 ケラマチージを守る者
たくさんの島人が 兵士が ここで傷つき 狂い 死にました
戦い終わり 41年の月と日が 風と一緒に流れます
しかし 今日も空にはジェット戦闘機 海には軍艦 陸には戦車
戦争と戦争の谷間 心もとない平和の昨日が 明日に揺れ続きます
秋風そよぐ日暮れ時 遠くに海が光っています
ここケラマチージの丘には 今 仏の寺とキリストの教会が建っています
愚かな戦に流された おびただしい血と涙の丘に
釈迦牟尼とキリストが並んでいます
秋風そよぐ日暮れ時 遠くに海が光っています
釈迦牟尼とキリストの並ぶ丘から降りてくる僕に
ちっちゃい男の子2人が声をかけます
「もう帰るの」
「うん」
「じゃあ 明日一緒に遊ぼうね」
愚かな戦に流された おびただしい血と涙の丘 ケラマチージ
ちっちゃい釈迦牟尼と ちっちゃいキリストが声をかけます
明日一緒に遊ぼうよ

明日一緒に遊ぼうよ
http://amanakuni.net/nanao/sound/kokopelli/14.mp3

ナナオサカキさんの詩・朗読 より書き起こし

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那覇・小禄のがじゃんびら公園 ~「花風の港」 美空ひばり~ [琉球通信:OKINAWA journal]

ガジャンビラ

むかし、沖縄が琉球王国とよばれていたころのことです。そのころ琉球は中国との進貢貿易を中心に、アジアの国々との貿易で莫大な利益をあげていました。

ある年、琉球の貿易船が中国の港に入りました。琉球の人々にとって、目に入るものはすべてめずらしいものばかりです。

その一つに、夕方になると、どこからともなく飛んできてブーンという音をだす虫がいました。

「これはめずらしい。こんな虫は見たことがない」

蚊の羽音に心をうばわれた一人の船乗りがつぶやきました。

この船乗りは、帰国のときがくると、おみやげとして蚊を持ち帰ることにしました。当時、沖縄には蚊が一匹もいなかったのです。

船乗りは、たくさんの蚊を木箱に入れ、帰りの船でもその音を楽しんでいました。

耳元にあてると、羽音は大きく聞こえたり、小さく聞こえたりします。船乗りにとって、それはなんともいえない心地よいひびきでした。

「村のものは、きっとびっくりするぞ」

村人のおどろくようすを思いうかべながら、船乗りはうれしそうに木箱をながめるのでした。

やがて貿易船は那覇に入港しました。船でのしごとをすませると、船乗りは南部にある自分の村へといそぎました。

那覇港を出て、垣花(かきのはな)の長い坂道をのぼっていた船乗りは、一息つこうとして坂の途中で腰をおろしました。そのとき船乗りは、蚊の羽音が聞こえないことに気づきました。

「あれ、どうしたんだろう?」

船乗りは、かるく木箱をゆすり、そうっとふたを開けてみました。そのとたん、ブーンという音がして、蚊がいっせいにどこかへ飛んでいってしまいました。あわててふたをした船乗りですが、もうあとの祭りです。

「アイエーナー、一匹でものこってないかなあ」

船乗りは、耳元に木箱をあててみましたが、なんの音もしません。それでも用心しながらふたを開けると、またしても数匹が逃げていきました。

沖縄の蚊はこうして各地にひろがったということです。蚊を逃がした坂は今でも「ガジャンビラ」とよばれています。
沖縄では、蚊のことをガジャン、坂のことをヒラといいます。ガジャンビラとは「蚊の坂」という意味になります。

那覇軍港をすぎたあたりから自衛隊那覇駐屯地へのなだらかな坂道(国道331号)がガジャンビラです。ただしガジャンビラは俗称で本来は我謝坂(ガジャビラ)とよばれたいたそうです。

また、この坂道の近く、那覇港を見下ろす高台には公園があり、ガジャンビラ公園と名づけられています。

『沖縄の由来ばなし』 文:徳元英隆 絵:安室二三雄 より引用

一人の人間の遊び心で、沖縄に「蚊(ガジャン)」が持ち込まれてしまい、
しかも、拡散されていまったというお話。
(その昔の、新しい文化の伝搬って、マジでこんな感じだったのでは?)

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アブシバレー(畦払い) ~沖縄の旧暦4月14・15日~ [琉球通信:OKINAWA journal]

夏本番を前に、農作物がすくすくと成長する季節。そんな時期に作物を荒らす害虫を退治し、豊作を祈る行事がアブシバレー。アブラムシやネズミなどは、作物にとっては迷惑な存在。けれども彼らにも命があり、なんらかの役目を担って生きています。

この行事では、捕まえたネズミを単に殺してしまうのでなく、藁(わら)やクバで作った小舟に乗せてニライカナイへ送る儀式を行います。いまは子どもたちが虫を捕まえて海に流し、命の大切さを学ぶ機会としてアブシバレーを行う地域もあります。

また、この日からハーリー鐘がなるまでの期間は、

「ウミドメ(海留め)・ヤマドメ(山留め)」

山や海に入ることが禁じられていました。これは琉球王府が定めたもので、この禁を破ると風害が起きると信じられていたとのこと。しかし真相は、この期間、漁や山の幸の収穫を控え、自然に任せることで、海や山の幸に大きく成長してもらうという意味があったそうです。

『沖縄暮らししきたり読本 御願行事』 比嘉淳子著 双葉社 より引用

アブシ:”畦”(あぜ、田畑の境目)
バレー:”払い・祓い”

「虫払い」って言ってます。

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海で穢れを祓う・沖縄編 ~旧暦3月3日浜下り(ハマウリ)~ [琉球通信:OKINAWA journal]

満ち潮の大きい秋の大潮に対して、春の大潮は引き潮が大きいので潮干狩りにぴったりです。昔から、砂浜を歩いたり手足を海水につけるだけで禊(みそぎ)ができる

といわれています。海に着いたらまず海水でウビナディをして

「これかれも健康でいられるよう、悪いモノから守ってください」

と祈りましょう。もともとは身の穢れを海に流す意味があり、大きく潮が引くこの日に流せば、はるか遠くまで流れていくそうです。

浜下り(ハマウリ)では、サンゴや海砂を持ちかえって庭にまくのも厄払いになります。庭だけでなく、墓や御嶽にも敷いてあるのを見たことがあると思います。

海は元来、魔除けや禊ができる場所。

『沖縄暮らししきたり読本 御願行事』 比嘉淳子著 双葉社 より引用

ウビナディ(お水撫で):中指に若水などを取り、眉間につける動作を3回行なう。

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沖縄の世界遺産「玉陵(たまうどぅん)」~琉球国王の系譜~ [琉球通信:OKINAWA journal]

玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1527年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。

玉陵(たまうどぅん) -Wikipedia より引用

”第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓”

と記されてますが、第二尚氏王統って、なんじゃらほい?

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登川誠仁 の「戦後の嘆き」が生まれたいきさつ [琉球通信:OKINAWA journal]

「戦後の嘆き」は、あるウチナーンチュの元兵隊さんのことを思い浮かべて作った歌です。

私がコザに来た時ですから、1950年代も終りの頃です。この人は国頭の人で、酒場で知り合った兄さんでした。この人は15、6くらいから本土に渡って働き、むこうで招集も受けたそうです。だから親の顔も沖縄も、ずっと見ていなかったんだろうと思います。

戦が終って兄さんは沖縄へ復員してきました。彼も命からがらの状態です。ところが沖縄は壊滅状態、たくさんの人が死んで、自分のシマへ帰っても親兄弟もいなかった。彼は絶望のどん底にあったのでしょう。コザの横丁の飲み屋で、彼は年下の私を前にして、よく泣いていたのです。

私が悲しそうな歌をうたえば、自然と兄さんは自分の戦後の嘆きを語り始める。そしてまた涙を流す。その繰り返しです。

「また明日、ここで飲もうか」「あなたも来ますか」「ええ」……何度かこんな言葉を交わしました。しかし、いつしかこの人の姿は私の周囲からは消えていました。寂しそうで本当に可哀想な人でした。

歌が「降りてきた」のはその後のことです。
…………

この悲しい歌詞を、私は時間をかけてメロディを付けてみようと思いました。そしてしばらくして今に謳われる「戦後の嘆き」が58年に完成したのですが、もうあの兄さんはこの世にいなかったようです。

風の便りが「あの人は亡くなったようだ」と伝えてきました。

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『キナワをうたう―登川誠仁自伝』 構成・藤田正 より引用

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エイサー進化論 ~琉球國祭り太鼓・昇龍祭太鼓~ [琉球通信:OKINAWA journal]

どんな「伝統芸能」にも始まりがある。
今は「創作」「現代版」或いは「コンテンポラリー」と呼ばれる芸能も
いつかは「伝統」の称号が与えられるかもしれない。
時代の風と呼吸しながら時にカタチや様式を変えながらも
その「命」をつないで生きてきたのが「伝統」であるのなら、
伝統とは「進化」の過程に過ぎないのかも知れない。
…………

伝統とは「様式美」であり「型の成立」であるならば、
神あしゃぎ、道じゅねーとしての「伝統エイサー」
競技場発表演舞型としての「青年エイサー」
如何なる地域、性別、年齢を問わないボーダレス型としての「創作エイサー」
そして今新たな「スタイル」として生まれて来た
劇場を拝所として展開されるプロセニアムスタイル
いわゆる劇場演舞型の「世界エイサー」がここにある。

エイサーは進化し続けているのであり、
僕らはその時代の目撃者なのである。

新・シマとの対話~第10話「エイサー進化論」
https://www.youtube.com/watch?v=GI9cF1ISFS4

新・シマとの対話~第10話「エイサー進化論」 より引用

亡くなった魂を弔う「伝統エイサー」と、
生きている魂を寿(ことほ)ぐ「世界エイサー」


DRUMS OF HOPE ~エイサーの可能性を今ここに より引用

世界のウチナーンチュ大会と連動して行なわれる、「世界エイサー」が、
2013年から、南島詩人の平田大一氏が理事長である、
沖縄県文化振興会が実行委員会事務局になり、
創作エイサーの一大イベントへとパワーアップしました。

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平田大一という南島詩人の存在 ~シマとの対話~ [琉球通信:OKINAWA journal]

沖縄よ何処へ Okinawa, Where Are You Going?

昭和3年(1928年)。初の海外講演会が開催された伊波普猷のハワイでの講演会は如何なるものであったのか!

当時の講演会の資料を手に入れて一気に読んでみた。

資料とはその講演会の内容を冊子にした一冊の本。タイトルもずばり!「沖縄よ何処へ」である。


私は琉球処分は一種の奴隷解放だと思っている。
ところが、300年間奴隷制度に馴致(じゅんち)された琉球人は
折角自由の身になったのに、将来の生活が如何に
成行くかを憂いて、泣き悲しんだということである。
彼らもまた、一旦解放された小鳥が、
長い間その自由を束縛していた籠を慕って
帰ってくるように、300年間彼らの自由を
束縛していた旧制度を慕って、その回復を
希うて已まなかったのである

(「沖縄よ何処へ」伊波普猷著/世界社版)

その当時の社会状況的におかれる「沖縄」が微妙な立ち位置であることを知りつつも敢えて!彼は叫ぶ。

「沖縄人よ自らの精神の解放を自らの手で促(うなが)せよ!」

伊波普猷のそのメッセージが実は「島人」「沖縄人」に向けられて強烈に発せられていることに僕は驚きと同時に不思議に頷(うなず)いてしまう。

80年前の文章なのに今、読んでも色あせない感覚があるのは何故だろう!

哀しいほどこのシマの精神の根っこは今も!変わっていないのかもしれない。

基地に泣きながら基地を手放せず、補助金に依存しながら自らの土地の「宝」には気がつかず、息子や娘を、やたらと皆「公務員」にしたがるこのシマの人の体質

「この島を背負って立つ!」

如き人種は生まれて来ないんじゃないかと強烈に思うのだ。

本土資本の会社や企業、人物をも、心中穏やかでなく敵視する傾向性もあると聞くがこれ全て「自身の自信の無さ」の現れである。生まれたシマへの自信の無さからくる異なるものへの「不信感」の現れであると思うのだ。

伊波普猷は云う。


実際のところいえば、島津氏の琉球入りよりも
廃藩置県よりも、もっと致命的のものである。
それにも拘わらず、60万県民は、今なお惰眠を貪り
その政治家たちは、党争に日もこれ足らないという
有様である。悲惨窮まることを言わなければならぬ。
彼らは当然いわゆる『御手入れ処分』を
受くべく運命づけられているのである


「御手入れ処分」とは、自分ではどうすることも出来なくなった案件を政府がしゃしゃり出てきて整理することを言うものであるらしい。もの云わぬシマの慟哭(どうこく)が聞こえてくる。

果たして僕たちはこの「シマの人」だと言い切って良いのだろうか?このシマはそれを認めてくれているのだろうか?

突然の雨と風が吹く那覇のマチの揺れる街灯を眺めながら、小さな僕の大きな決意。

僕がまずは!「新しい島人」の一人目を目指すのだ!

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『シマとの対話―琉球メッセージ』 平田大一著 より引用

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糸満の白銀堂の黄金言葉(くがにくとぅば) [琉球通信:OKINAWA journal]

白銀堂物語

むかし、糸満村の百姓美殿(みどん)が、薩摩と琉球を往来している薩摩武士の
真玉左衛門から金を借りたが、期限がきても金をかえすことができなかった。
左衛門が薩摩に帰国する数日前に、美殿の家に行ったが美殿はいない。
さんざん探したところ、洞窟にかくれている美殿をみつけた。
烈火のごとく怒った左衛門が刀を抜いて斬ろうとしたところ美殿は、
「私は決してあなたをだますつもりはありません。返したくても金の工面ができず、
恥ずかしくて顔むけできず、ここにかくれていたのです。諺にも、

意地ぬんじら一手引き、手ぬんじら一意地引き】

(意地が出たら手をひっこめなさい。手がでたら意地をひっこめなさい。
短期にまかせて手をだすなの意)

とあります。どうかご勘弁下さい。きっと来年こられた時はお金をお返しします」
と誠意をこめてあやまった。左衛門は理のある美殿のことばに刀を下ろし、やがて薩摩に帰った。

さて、故郷の薩摩に帰った左衛門がなつかしい家に帰ってみると、
なんと新婚間もない最愛の妻が、見知らぬ男と寝ているではないか。
カッとした左衛門は、
「おのれ、主人の留守に、ふとどき者めが」と一刀両断にしようとしたが、
ふと美殿の「意地が出たら手を引っこめなさい………」ということばを思い出し、
刀を納め、落ちついてよく見ると、男と見えたのは男装した彼の母であった。
訳をきくと、左衛門の留守の間、女二人では不用心と、母が毎日男装して嫁と寝ていたという。
もしも、美殿のことばがなければ、母と最愛の妻を殺していたかもしれない。

美殿への深い感謝の念をもって翌年琉球にきた左衛門は、大恩人美殿をたずね、
礼を言った上、借金を帳消しにしようと申しでた。
ところが美殿は金の工面がついたのでぜひ金を返したいという。
「受け取れ」、「受け取れない」、の押し問答のあげく
それではこの金で昨年美殿がかくれていた洞窟の前に、感謝の御堂を建てようということになった。

これが今に残る白銀堂である。

『沖縄の昔話』 朝日矢商事(株)発行 より引用

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糸満市・平和祈念公園の「平和の光の柱」 [琉球通信:OKINAWA journal]

沖縄本島南部、12月に入ると、朝晩の気温が20℃を下回ることになり、
いきなり、冬モードに突入します。
沖縄は、春と秋がない?つうーか、
いきなり寒くなったり、暑くなったりします。

糸満の冬の行事として、定着してきた感があるのが、
平和祈念公園の(記念じゃなくて、祈念です)、

【平和の光の柱】

ですが、喜屋武より南方面では、
「あれ、なんね?」って感じで、光の柱が目視できます。

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