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映画「イヨマンテ~熊送り」 ~海燕社の小さな上映会2016~ [愛奴通信:AINU journal]

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【作品解説】イヨマンテとはイ(それを)・オマンテ(返す)という意味で、
熊の魂を神の国へ送り返すまつりをいう。アイヌ民族にとって、
熊は重要な狩猟対象であるとともに神であり、親しみと畏敬の対象であった。
熊は神の国から、毛皮の着物を着、肉の食べ物を背負い、胆(い)という
万病の薬を持って、アイヌつまり人間の世界へ来てくれる。
そのお礼に人間界のお土産を持たせ、また来てくださいと送り返すのだとアイヌは言う。

1977年3月上旬、このイヨマンテは行われた。
指導にあたったのは二風谷アイヌ民族資料館の萱野茂さん。

「本物のイヨマンテを覚えておきたい」というアイヌの青年たちの熱意に支えられて、祭りは実現した。

準備。山から材料の水や草を集めて、祭祀道具を作る。酒やまつりの食べ物を作る。

イヨマンテが始まる。熊は檻から出され、ヌササン(祭壇)の前に連れていかれる。
花矢が次々に射られ、最後に矢が射られる。
その前でニヌムッチャリ(クルミと干魚を撒く)をする。
アイヌの村は豊かで楽しい所だと神の国に言づけてもらいたいという願いが込められている。
またアイヌペウレプ(人が熊の役をして遊ぶ)や綱引きをして、豊猟を祈る。

ヌササンの前での前での熊の解体。肉は作法に従いカムシケニ(肉を背負う木)にかけられる。
次いで魂が宿っているとされるオルシクルマラプト(毛皮をつけた頭)をチセ(家)に招じ入れ、
火の神との対面をする。そして、夜を徹しての宴。

2日目深夜、ウンメンケ(頭の化粧)。鼻先と耳の毛だけを残して熊の頭から毛皮が取られ、
目、舌、脳も取り除かれる。そして、イナウキケ(木の削りかけを使った祭具)や麹、
笹で美しく飾る。その頭骨をユクサパウンニ(熊の頭をのせる木)にのせ、
カムイシンタ(神の乗り物)をつけ、性器をつるし、祭主のしるしをつけたパスィ(へら)をつるし、
着物を着せ、土産を持たせる。そして3日目早朝、ケオマンテ(なきがら送り)の儀式が行われる。

イヨマンテは、アイヌの自然観、生命観が凝縮したまつりである。
生命体である人間と他の生命体である動物との対峙。
そこには、人間の信仰、文化の原初への啓示がある。

「イヨマンテ~熊送り」(制作:民族文化映像研究所/1977年/103分)

海燕社のFacebookページ より引用

この映画、ものすごい刺激を受けました。

いろんなことを考えたので、少し整理してみます…
(う~ん、整理になっているのかどうか)

僕が、この映画から感じた萱野茂さんの思いというのは、
(あくまでも僕の想像ですが)
儀式を正確に残すことよりも、

スピリットを継承することを重視したまつりにしたかったのでは?

極論ですが、僕個人としては、
「イヨマンテ」の儀式は、万が一なくなったとしても、
「イ」を「オマンテ」するというスピリットは、
絶対に残さなければいけないものだと思ってます。

昔の先人たちは、口頭で儀式を継承していくスキルがあったけど、
今の我々にはそのスキルはない。
その代わり、記録・データ化するというスキルがある。
(結局、記録するのは、当事者達ではなく、第三者によるケースが多い)

時代の流れのなかで、失われていく伝統行事・祭祀を記録するというアクションが、
良いことなのか、悪いことなのか?

儀式だけを残しても(記録・データ化しても)
スピリットがなければ、魂の抜けた仏像造りになってしまうし。

火の付いたスピリットは、世代を超えて突然登場する。

火の付いたスピリットが登場しても、
儀式の記録・データがなければ、その儀式は行えない。

【伝統行事・祭祀の記録・データ化は必要】

残った記録・データは、必要のない人は、スルーすればいいだけ…
(データは無いより、多いほうがいいのでは?)

ハワイイのホクレアプロジェクトは、
火の付いたスピリットが登場した時には、
儀式(ウェイファインディング)がハワイイどころか、ポリネシアにも残っていなくて、
ミクロネシアからの情報・データで儀式を復活させ、
儀式が復活することで、多くのスピリットに火が付いたというケース。

海燕社の主催ということで、映画「イザイホウ」の野村監督が会場に来られてました。
(僕は、イヨマンテを見ながら、ずーっとイザイホーのことを考えてました)

沖縄県久高島に伝わる神事を映し出す!映画『イザイホウ』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=hYrhxkYJuM0

ビッグ・ビジネスにはならないのを承知で、
ニッチなマーケットで勝負している海燕社さん、応援してます。
(その価値のある情報を必要としている人たちは、必ず存在します)

PEACE


「UTARHYTHM」勝手にレビュー [愛奴通信:AINU journal]

本日(2016/3/10) 、沖縄本島南部の糸満に 、
OKI DUB AINU BAND の待望のニューアルバム
「UTARHYTHM」が無事にやってきました。

で、早速ヘビーローテーション中です(笑)

「交易」の間で作られる最新の「伝統」/ INTERVIEW : OKI
http://ototoy.jp/feature/2016030203

このサイトで、45秒間ずつですが、全曲の試聴ができるのですが、
45秒間の試聴バージョンでは、けっしてわからない世界が降臨しました。

想像をはるかに逸脱した、超大傑作です(きっぱり)。
けっして、一ファンの過大評価ではありません。

この場をお借りして、若輩者のわたくしが、せんえつながら
勝手にレビュー(速報版)を、軽くぶちかまさせていただきます。

あくまで、速報版で、しかも、私個人の思いですのでご了承のほどを。
(歌詞カードからの引用も多数です、あしからず)

01. UTARHYTHM [Sakhalin Aynu Style]

アルバム・タイトルのチューンが一曲目に登場。
それなりの、位置づけをされるだけのインパクトのあるチューン。
トンコリは樺太西海岸のスタイル。

02. CITY OF ALEPPO

個人的には、現時点では、一番のお気に入り。
ALEPPO は、シリアの町の名前。
後半のサビの部分のトンコリに、この何年かの間のOKIさんの気持ち…
魂の叫び、みたいなものが込められているような気がします。

03. HEKURI SARARI

Urara Suye Ekamuy Sinta Atuy Tunna Etunun Paye
神の空飛ぶ乗り物 霧もやに揺れながら 海の沖合に音を立てて行った

このLYRICSで、無条件全面降伏です(笑)
道東方面の曲。

04. ARAHUY

道東方面の曲。

05. 'ANKISMA KAA KA [Ride On Snow]

Sannupista Dub と同じカテゴリー?
現時点で2番目にお気に入り。
OKIさん得意の、六弦のトンコリのリズム・パターン。
トンコリ、めちゃくちゃカッコイイです。

06. UTARI OPUNPAREWA [Brothern,Stand Up And Dance]

これは、トラディショナルな UTARI OPUNPAREWA のかなりレゲエなバージョン。

07. KENKEYO

以前、「Fretless Spirit Journey of the Tonkori」という
ドキュメンタリーフィルムの中で、OKIさんが48秒間だけ
演奏していたのを見て&聴いて、お~って思い、コピーしたのがこのリズム。
(すでに、マイレパートリーです)
僕の、クルパルマハ・スタイルの入門リズムです。
途中から、ムックリのオンパレードになります。

08. SUMA MUKAR [Stone Axe]

言うことなし(笑)
トンコリはクルパルマハ・スタイルの最高峰?
バビロン・キラーのOKIさんならではLYRICSも最高。
サハリンロック同様、マルコス・スザーノ氏のパンデイロ炸裂。

09. WENKO ROCK [Bad Rock]
トンコリはサハリンロックのFLOWER AND BONEの原型(オリジン)なのでしょうか?
WENKO:やばい

10. KAMUY SINTA [Kamuy's Cladle]

神の舟「カムイ・シンタ」、神様の乗り物。
SINTA:ゆりかご

11. TAMA KOOTO

ムックリが渋い、ボーカルも。

12. RERA TASA BOO

風を吹かすまじない…だそうです。

13. NT SPECIAL

Augustus Pablo の AP SPECIAL は彼のイニシャルだけど、
NT ってなんやろか?って考えてたら、
Dub Ainuのドラマーとベーシストのイニシャルだそうです。
トンコリは樺太西海岸スタイル。

トンコリの音がクリアーによく聞こえるアルバムだと思います。
(キーボードもけっこう目立ってま~す)

トラディショナルなアイヌの音源をすべて知っているわけではないけれど、
OKIさんがいろいろやってきたリズムの集約というか、
いろいろ連想させてくれるリズムが金太郎飴のように、どこを切っても出てきます。

あと、ムックリ、がんがん登場してます。

トンコリやアイヌの音楽の洗礼を受けてみようかな?
と思っている人たちには、
トラディショナルなアイヌテイストもあり~のこのアルバム、おすすめです。
石巻の写真を掲載する思い。

Q.
アルバムのジャケットに石巻の写真を使ったのは、
東日本大震災を忘れないという大きなメッセージでもあるわけですよね。

OKI.
石巻の写真が俺の頭のなかにあるイメージだったので。
ピアノが自然の力でひっくり返っているんだよ。
それは記憶にとどめておかなければならないことだし、
5年近く経つけど、伝えていかなければならないこと。
3月11日の近くにアルバムをリリースすることができる。
CDとして形に残していくのだから、
ミュージシャンのステートメントとしてビジュアルにも入れたかった。

Q.
やっと5年なのか、もう5年なのか。

OKI.
子どもたちの甲状腺とかヤバイですよね。
お金を持っている人たちのやっていることって、本当におかしいですよ。
何も解決していないのに、どんどん再稼働とか言ってさ。

OKI DUB AINU BANDインタビュー アイヌの伝統を今の時代に置き換えて継承していく。 より引用

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「UTARHYTHM」裏ジャケット(Photo by OKI at Ishinomaki, 2011)

僕は、トンコリ・キングがOKIさんじゃなかったら、
ここまでトンコリにハマッテなかった?っていう自信があります。

OKIさんがトンコリを弾いてるから、僕も弾きたい

っていう思い、けっこう強いです。
南の島で奏でるトンコリ、僕自身の魂に向けて、弾いてます。

このアルバムのおかげで、しばらくの間、幸せ:IRIEな状態が続きそうです(笑)

【この星に音楽が無かったら、僕は、この星の上に存在していない(したくない)】

ソンノ イヤイライケレ

PEACE


OKI DUB AINU BAND 「UTARHYTHM」 [愛奴通信:AINU journal]

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2016年3月9日、OKI DUB AINU BANDの待望のニュー・アルバム
「UTARHYTHM」(2016/3/9) がリリースされました。

Amazonでは、いきなり在庫切れになってますが(汗)

僕は、TOWER RECORDS ONLINE の先行予約をしてまして、
発送済みの連絡メールが TOWER RECORDS の方から届いてますので、安心してます。

OKI DUB AINU BAND、アイヌが継承してきた歌=伝統文化をリズムで表現しさらにレヴェルアップした新作『UTARHYTHM』
http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/10143

OKI DUB AINU BANDインタビュー アイヌの伝統を今の時代に置き換えて継承していく。
http://waccamedia.com/culture/288

「交易」の間で作られる最新の「伝統」/ INTERVIEW : OKI
http://ototoy.jp/feature/2016030203
(このサイトで、45秒間ずつですが、全曲の試聴ができます)

OKI DUB AINU BAND としては、

前作の「SAKHALIN ROCK」(2010/7/14)
そのダブ・バージョンの「ヒマラヤン・ダブ-ミックスド・バイ・OKI vs 内田直之-」(2011/4/16)

以来のニューアルバムになりますが、

OKIさん個人としては、

琉球民謡界の重鎮、大城美佐子先生とコラボした

OKI MEETS MISAKO OSHIRO 「北と南」(2012/3/14)

をリリースしています。

OKI 大城美佐子 今日の訪問者 115
https://www.youtube.com/watch?v=cARl7iEEor0

響き合う北と南の音色 OKIと大城美佐子
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-199167.html
[琉球新報]

北海道で、アイヌ主催の「先住民族サミット」があったのが2008年…
僕が、トンコリに目覚めた&手にしたのが2010年…
OKIさんと美佐子先生のコラボが2012年…

こうして振り返ってみると、年々、地球の自転速度が早まってるのでは?
と思えるぐらいに、あっちゅう間に時は流れるというのを実感してます。

【光陰矢の如し/少年老い易く学成り難し】
3月5日の渋谷の CLUB QUATTRO のアルバム・リリース記念ライブ、
行きたかったなぁ…

今回、アルバムの広告が Google Adsense に表示されていて、
う~ん、やるなぁ…とちょっと感心しました。
(インターネットを使ったマーケティングは、今や必須アイテム)

CDが売れない時代に、いかにしてCDを売るか?
やっぱり、おっさんとしては、ネット配信&ダウンロードよりも、CDが欲しいです~

PEACE

沖縄・キムンウタリの碑の前で ~『アイヌわが人生』貝澤正著より~ [愛奴通信:AINU journal]

北海道連合遺族会主催による、沖縄戦跡巡拝と北霊碑慰霊祭に、ウタリ協会の一行も参加させてもらった。協会役員と各支部からの遺族代表など23名は、11月20日、沖縄へ向った。 (1981年)
…………

私は沖縄の人々の基地闘争の意味を知ることができた。先般読んだ本の中に次のようなことが書いてあった。

周囲の反対を押し切って自衛隊に入隊した沖縄の青年が、隊での抗議で”一旦有事の際は、南は九州から以北、北は仙台以南に自衛隊を撤退する”

と教えられて、遂に自衛隊を退職した。

北の北海道と南の沖縄とは長い歴史の中で、化外の民として差別されてきた。徳川封建体制化で、蝦夷地松前藩琉球島津藩の圧政に苦しめられた、共通の歴史をもっている。近代国家になっても、中央集権の弊風が続いていることを知ることができた。
…………

その夜、24日に行うイチャラパ(先祖供養)の打合わせのために、(糸満町の)真栄平(まえひら)へ向かった。会場の仲吉さん宅にはすでに老人クラブ会長の名嘉真(なかま)さんや区長の大城(おおしろ)さん他の方々が待っていてくれた。

自己紹介を終り、長い間碑を守っていただいたお礼と、ご無沙汰のおわびを申しあげると、真栄平の代表の方が次のように述べられた。 遠い所からよく来てくださいました。私達は人間として当然やるべきことをしたまでのことです。南北の塔めでの参道は、今のところ余りよくありませんが、土地改良計画もあるので、それと並行して、道路改良も行うよう努力致します。

アイヌの皆さんと真栄平の私達との交流を、いつまでも続けて行きたいと思います。
…………

3時、全員がアイヌの服装に着換え、アペフチカムイ(火の神)を中心に着座する。(ウタリ協会の)葛野事務局長の司会で、イチャラパは始まった。
…………

この所に呼ばれた先祖の霊には供物や皆で食べた物が6倍のおみやげとなり、死者の霊に住むコタン(村)に戻り、皆を集めて、地上の世界と同じように共に飲み、食べ、歌って楽しむとされている。
…………

沖縄戦での死者は20万余といわれ、そのうち沖縄県人は15万、全人口の3分の1が死んだ。中でも真栄平では3分の2の非戦闘員が砲弾を受けたり、友軍に殺され、あるいは自爆の巻き添えになって死んでいった。

教育は、必要ではあるが、反面恐ろしいものだ。天皇に命をささげることをほこり、生きることを恥とした教育が、沖縄の悲劇を生んだ。兵力と物量の差を軍の最高幹部は知っていてなおかつ戦わせ、死地に追いやっていたのだ。
…………

この度のイチャラパで真栄平地区の皆様の心あたたまるご厚意は申すまでもないが、長い間北海道の私達に特別な心づかいをして下さった宮平ミツさん、浜松エミさんには、空港までの出迎えを受け、宿舎におみやげを持ってこられるなど、老齢の上、足の不自由を顧みず影のようにつきそって、ご心配下さったことを特記しておきたい。

宮平さんが見送りに来られた空港での、「真実を私は知っています。私の知ったことを書き、写真とともに送ります。貝澤さんは団長として来ているのですから、真実を正しく伝えて下さい」との一言は忘れられない。

沖縄戦は終わっていない。殺し合いをさけるためのたたかいをつづけることが、南北の塔のイチャラパで得た結論だ。


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『アイヌ わが人生』 貝澤正著 より引用

僕は、真栄平の人たちが、キムンウタリのことをどう思っているのか?
本音が知りたくて、真栄平に知り合いのいる、
別な集落のイチマンチュ(糸満人)に、「機会があれば聞いてみて…」
ってお願いしたことがあります。

その場で、即答でした。
「そこが、掃除されていればOK、そうでなかったらNG…」

キムンウタリは、真栄平の人たちからはOKを頂いています。
(いつ行っても、綺麗に掃除されている)

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Photo by Toshi
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『母と子でみる沖縄戦とアイヌ兵士 (母と子でみるシリーズ)』 より引用

【殺し合いをさけるためのたたかいをつづけること】

故貝澤正エカシのメッセージが、心に響きます…

SHING02 - 旋毛風 [Whirlwind]
https://www.youtube.com/watch?v=-H3yAUTmh_A

PEACE


糸満市真栄平のキムンウタリ(南北の塔) [愛奴通信:AINU journal]

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民族衣装をつけた鷲谷さんは、私たちの焼香がすんだあと、塔の前にテープレコーダーを置きました。

玉治さんのお母さん、八十四歳の浦川タレさんの言葉がふきこ込まれているのです。おばあちゃんのアイヌ語は、最初から涙声でした。

「シサム(和人。本来は隣人の意。シャモはこの言葉が訛ったもの)
たちの戦(いくさ)がはじまった。

そのために、親戚、親子、たくさんいる中から、一人だけ、むりやりに連れていかれても、それをとめることはできなかった。

親の顔をみることもできない。声をきくこともできないところへ連れていかれ、そして殺されても、どうすることもできなかった。

お前のまわりには、ウタリはいたのだろうか。知らないシサムの中で、お前はただ一人だったのではないだろうか。

いくら心配しても、私たちの力ではどうにもできなかった。許しておくれ。

もう、お前は神になったのだから、お父さんや弟たちとも会えるだろう。せめて、みんなで静かに暮らしておくれ。

サトさんが沖縄へ行くというので、酒とタバコ、ひえと米、いろんなものをもっていってもらうから、沖縄の多くの仲間と、わけて食べてください……」

ふりしぼるようになったり、囁くようになったりする母の声が、
雑木林の中に消えていきました。「沖縄のおばあちゃんの言葉みたいだ」と喜行さんが小声でいいました。
…………

1981年、北海道のウタリ協会の沖縄墓参団は、南北の塔の前でイチャルパ(先祖供養)を行なった。団から仲吉さんらへ、弟子屈町長から真栄平区民へ感謝状がおくられた。
…………

同時にウタリ協会は沖縄戦戦没アイヌ兵士の調査を決定。39名までは判明したが、現在のところそれ以上は不明である。それほど沖縄戦は苛烈、混乱をきわめたのである。

ちなみに、沖縄戦戦没兵士数は、沖縄出身者を除けば、北海道出身者が最大である。

『母と子でみる沖縄戦とアイヌ兵士 (母と子でみるシリーズ)』 より引用

「沖縄のおばあちゃんの言葉みたいだ」…
アイヌ語と、ウチナーグチからは、同じようなバイブスを、僕も感じます。

糸満の真栄平という集落のはずれの高台に、南北の塔があります。
(真栄平は、アイヌ出身兵が含まれた「山部隊」と米軍の激戦地)

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Photo by Toshi

沖縄戦で亡くなられた、地元真栄平の方々と、
遠く北の大地(アイヌモシリ)より、この地に送られてきて、
亡くなられたアイヌの兵士の霊も祀られています。

キムンウタリという、
アイヌ語で「山の同胞」という意味の言葉が、塔の北面に刻まれています。
(南面には、真栄平区民、と刻まれています)
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『母と子でみる沖縄戦とアイヌ兵士 (母と子でみるシリーズ)』 より引用

平和へアイヌの祈り 南北の塔、戦争犠牲者弔う 糸満市
http://ryukyushimpo.jp/photo/prentry-13729.html
[琉球新報]

アイヌ式で慰霊 糸満・南北の塔(沖縄)
http://blog.okinawabbtv.com/seasa/?itemid=36964

2008年の10月25日、萱野志朗さんが欠席ということで、
木幡寛さん(弘文くんのお父さん)を先達として、イチャルパではなく、
カムイノミ(神への祈り)がおこなわれ、僕も参加させていただきました。
弘文くんのお婆さんのはからいで、最後はみんなで輪になって踊って、終わりました。

カムイからのおくりもの
https://www.youtube.com/watch?v=q07Bg9yp-mk
[公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構]

僕は、キムンウタリや平和祈念公園の「平和の礎」の、
北海道~樺太のあたりでトンコリをよく弾いてます。
トンコリは、三線みたいに大きな音が出ないところが、お気に入りです。
(平日の、誰もいない平和祈念公園で弾くと、ものすごく綺麗な声が出ます)

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Photo by Toshi

Okinawa Peace Memorial Park 沖縄県営 平和祈念公園
https://www.youtube.com/watch?v=axulKaofe8Q

【沖縄には、リゾートや遊びじゃなくて、平和を祈りにきてほしい】

南北の塔でのアイヌの行事に関して、
ネット上で、わけのわからんやから、がいろいろ言ってますが、
平和を祈りにきている人たちのことを、
とやかく言う権利や資格は、あのアホどもにはない…

PEACE


『オホーツク街道』 ~樺太アイヌ語の最後の話し手~ [愛奴通信:AINU journal]

…………

常呂(ところ)に、
戦後樺太から引き揚げたアイヌの家族が幾組か住んでいるということをきいた。
たまたま常呂へゆくという米村喜男衛氏に案内をたのみ、汽車に乗った。
当時、常呂まで汽車で一時間ほどかかったそうである。
常呂の町はずれに、引き揚げ者住宅があって、
胸を打たれるほどにみすぼらしかった。
ここで、何人かの樺太アイヌの有力者たちに会ったが、
ことばをほとんど忘れていて、よき話し手とはいえなかった。
博士は失望し、米村喜男衛氏にうながされて駅にむかった。
汽車の時間がせまっていた。
ふと、
「浜のばあさん」
とよばれている女性のことを耳にした。
博士は、その女性に会いたくて、駅まできてもためらっていた。
「同じようなものですよ」
と、米村さんはきめつけた。
結局、服部博士は町はずれの浜にむかい、
そこで掘立小屋をたててひとりでくらしている
藤山ハルさん(当時山田姓)をたずねた。
聡明な老女で、後日わかったことだが、彼女はこの日、所用で町に出かけ、
服部博士らが路傍でなにか意見の食いちがいがあるらしく
足をとめて話しあっているのを遠くからみて、いっさいの事情がわかったという。
それだけでなく、
(あの人が、私の家を訪ねるように)
と、祈りつづけた。ハルさんは、巫女(ツスクル)だったのである。
ハルさんの言語量はおどろくべきゆたかさで、その音声はたしかだった。
彼女は樺太西海岸北部のライチシカの出身である。
彼女の父は彼女を小学校に入れなかった。
「日本の風習は神様に悪い」という理由だった。
このことが、彼女の言語の純粋性を守ったのかもしれない。
さらには、彼女は一人っ子で、
年寄りに可愛がられて育ったということもあったろう。
むろん抜群の記憶力が、
彼女を稀有の話し手にしていたことはいうまでもない。
…………

彼女の死は、荘厳だった。
なぜならその死とともに、樺太アイヌ語は死語になったのである。


『オホーツク街道―街道をゆく〈38〉 (朝日文芸文庫)』

司馬遼太郎著 より引用

言語学者の服部四郎博士と、藤山ハルさんとの、運命的な出会いには、
人智を超えた、なんらかの力が働いたとしか、思えません。
もし、この出会いがなかったら…
(ま、それはそれで、別なストーリーの展開がされるだけなのですが)

人生って、出会いって、不思議&面白い~

(すべてが、いたずら好きの神様のおかげやとしたら?アホらしなるときがあるけど)

街道をゆく2 「オホーツク街道」 司馬遼太郎
https://goo.gl/gfZlAk
[8:10] 常呂町の樺太アイヌ

【藤山ハル媼(フチ)(1900-1974、ツスクル・巫女)】

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民族名エソランケマハ 樺太のライチシカ出身。
日本の敗戦により同島はソ連が占領、
止むなく故郷を捨てて網走市や常呂町に住んだ。
ライチシカ方言最後の話し手と言われ、
言語学者が彼女のもとへ通いつめた時期があった。
貴重な文化遺産を残した女性である。

『アイヌ民族写真・絵画集成 4 伝承』監修:萱野茂 編集:横山孝雄 より引用

樺太アイヌ、金谷フサと白川八重子のトンコリ演奏と話
http://goo.gl/EOB3q4

(藤山ハルさんの長女が金谷フサさん、次女が白川八重子さん)

樺太には、アイヌ以外に、ニブフウィルタという民族も住んでいて、
北の大陸の文化と触れ合った樺太アイヌは、
北海道のアイヌとは雰囲気の違う(大陸っぽい)衣装であったのが、
この藤山ハルさんの写真からわかります。

トンコリという弦楽器と、樺太アイヌ独特の衣装が生まれた背景、
まだまだ、勉強中でございます。
オホーツク文化、けっこう重要な鍵を握ってます。

僕は、本はけっこう、ささーっとななめに読んでしまうことが多いのですが、
司馬遼太郎さんの『オホーツク街道』は、
時間をかけて、ゆっくりじっくり楽しみながら読ませていただきました。

PEACE


樺太東海岸・オタサン(小田寒)のグルーヴするトンコリ [愛奴通信:AINU journal]

TONKORI KING の OKIさんが、現代に蘇らせようとしているリズムの一つに、

●ヲノワンク・エカシ
●クルパルマハ・フチ
●スカ・フチ(西平ウメさん

へと継承されてきた、
樺太東海岸のオタサン小田寒)という集落のリズムがあります。
(現在、サハリンでの現地名は、”フィルソヴォ(Firsovo)”)

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オタサン(小田寒)のリズムというのは、
美しいメロディを、しんみりと奏でるのでなく、
これでもかってぐらいに音数が多くて、グルーヴ感がハンパじゃないです。

スカ・フチ(西平ウメさん)の演奏している音源は聞いたことがあるのですが、
ヲノワンク・エカシ、クルパルマハ・フチの演奏の音源は聞いたことがありあません。
(ヲノワンク・エカシの音源は残ってないはず?)

OKIさんの演奏から想像するしかないのですが、OKIさん曰く、

「クルパルマハさんのトンコリは、どうやって弾いているのかわからない…」

ということで、おそらく超カッコイイ演奏だと思われます?

僕の大好きな、BRASILのBAHIAというところの、
打楽器のリズム構成に、非常によく似ているところがあります。

僕は、このオタサン(小田寒)生まれのグルーヴするトンコリに、
兎に角、はまりにはまっています。

あれだけ、狂ったように弾いていた三線を、いとも簡単に放り出して、
2010年からずーっとトンコリに夢中になっているのも、OKIさんのおかげです。

もちろん、沖縄にはトンコリ教室などあるはずもなく、
どないもなりまへんな~ってことで、
北海道の白老のアイヌ民族博物館から、

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『西平ウメとトンコリ(CD・DVD・楽譜付)』

という、たぶん?唯一のテキストを取り寄せて、
完全独学状態で、僕のトンコリ・ライフはスタートしました。

最初は、テキストを見ても、どっちが1弦でどっちが5弦なのかわからず、
お約束のように、弦のチューニングの順番を逆にしてました。

トンコリを縦にして&正面から見て

【 5弦:A 4弦:D 3弦:G 2弦:C 1弦:F 】

が、いわゆるスタンダードなチューニングになります。
(持って構えた場合、一番手前の弦が5弦になります)

ちなみに、僕は、クロマチック・チューナーを、
A=440Hz ではなく、 A=432Hz に設定しています。

OKIさん曰く、

「チューニングはいろいろあるよ…」

ガーン、そっそんなこと言われても…(汗)

とりあえず、現時点で、僕は、これしか知らないので、
このチューニングでできる楽曲のみがレパートリーになってます。

弦は、沖縄の三線用の弦は短くて使えないので、
ヤマトゥ(内地)の三味線のテトロン弦を使ってます。
(トンコリの方が、楽器そのものが大きいというか長い)

2弦:C と 5弦:A は音が低いので、
太い弦(ウージル)、他は細い弦(ミージル)を張ってます。

中央の強力なオーラを放っているのが、クルパルマハさん
indexee-400x240.jpg

『西平ウメとトンコリ(CD・DVD・楽譜付)』より引用

●OKIさんによる、クルパルマハ・スタイルの演奏

OKI DUB AINU BAND / SUMA MUKAR
https://www.youtube.com/watch?v=Dv_N2E9_sJ8

PEACE


トンコリ名人ヲノワンクのお話~松浦武四郎氏のレポートより~ [愛奴通信:AINU journal]

阿爺 ヲノワンク

―孤老の奏楽者と歌曲・楽器の滅亡―

北蝦夷地(カラフト)にあるオタサンという里は、シラヌシ(白主)
というソウヤ(宗谷)から来る船の渡し場から百余里(約400キロ)
も経た奥地の東海岸ぞいにある。視線をさだめることもできぬほどの東
の大海洋を、眺めて果てる、ともいうべきところだ。

そこに人家が五、六軒ほどもあって一つの村落をなしている。村には
ヲマンネンというアイヌがいる。その父がヲノワンクという。もはや八
十余歳で、白髮は肩を覆い眉毛は頬に垂れ、黄髭赤鬚が胸を隠すほどで
ある。その髭の間から微笑む眼もとを見れば、並の輩とは思われなかっ
た。この老人、いたって言葉が少く、みだりに質問を発しても答えては
くれない。

私どもがその家へ入って宿を乞うた時、すこぶる丁寧に礼をつくし、
しばらくたつと、自ら五絃の琴を棚から下して、それを抱いて浜辺へ
出て行った。私どもは、何事ならんと、覗見すると、白砂の上に座して
これを抱き、弾(つまび)くのであった。

しばし過ぎて、家へ帰り来たが、その間に私どもの飯もできたので配
り与えると、半椀ばかり食べると、残りは隣家の子供らへ与えに行き、
帰ってくるとまた炉端に座り、無心にこの琴を弾くのだった。

夜になると、六月の十三夜のことだったので、月影が胡砂(大陸から
の風塵)に隠れながら昇り、あたりはおぼろ気である。老人はまた浜辺
に琴を持ちだして、独り何かは知らないが歌のようなのを謡いながら弾
いていたのである。

あまりにもその琴を深く愛し、自らを慰めているさまを不思議に思
い、同行させていたアイヌに聞いたところ、楽器はトンクル(トンコリ
アイヌの民族楽器)というものであって、昔からこの島に伝わっていた
という。琴の調べもさまざまであったのだが、アイヌが運上屋の漁労に
徴用されることが激しくなるにつれ、琴を弾き遊ぶ者も次第に絶えて、
それらの歌曲も失せてゆき、今それができるのはただこの東の海沿いに
住む、この老人だけになってしまったのだといった。

老人はその事を悲しみ、歌楽を誰にか伝えられぬものかと、いささか
の暇でもあれば、これをかき鳴らしては、その伝えを受ける者のいない
事を嘆いているのであった。

そこで、私どもが召連れてきたアイヌたちに、おまえらはどうかと聞
いたところ、その中に、そこからは近いロレイという所の者で、アカラ
カという男が少しばかりは弾けるということで、彼に弾かせてみると
少々は覚えていたが、その音はヲノワンクの調子とは比べると、大いに
劣っていた。

その琴の古いのがあったならば、一面欲しいのだがと買うことを求め
たらば、快よく古い琴一面を私によこしてくれた。

――この海辺に住むアイヌたちは往古、このような楽器をたずさえて、
歌楽に興じることもあったのだが、今はそれらを楽しみ人々を慰める暇
もない。運上屋というものができたばかりに、四季を通じて酷き使われ
るばかりで、生涯を辛く渡っているのです。この楽器がいま絶えてしまっ
たことの證として、今度江戸という國から下ってきたニシパ(お偉方)
たちへ知らせてくだされ――

と、いとも憐れ気にその訳を述べて、一面の琴を託してくれたのは、
なんとも珍しいできごとであった。

「近世蝦夷人物誌」原著・松浦武四郎
現代語訳・横山孝雄『北の国の誇り高き人々』かのう書房刊 より引用

OKI/トンコリ~驚異の5弦ギター~サハリンからの衝撃@札幌歩行空間2013
https://www.youtube.com/watch?v=79jc2Id_p0Q
[12:31] ヲノワンク・エカシのお話

PEACE


極東カラフト(サハリン)の超級弦楽器トンコリ [愛奴通信:AINU journal]

沖縄に引っ越して、3年という月日が流れた、2010年7月…
極東カラフトの超級弦楽器トンコリが、札幌から糸満にやってきました。
まだ、夏至南風(かーちべー)が吹いていたのをよく覚えてます。

やってきたトンコリには、なななんと、
月のデザインがほどこされていたので、
以下のように命名しました。

クンネ チュプ カムイ トンコリ
kunne cup kamuy tonkori
月のトンコリ

CA3B0815-400x533.jpg


Photo by Toshi

Q.三線も、まだ、バリバリに弾いていたのに、また、なんでトンコリ?

A.たまたま、ほんとにたまたま、この動画を見てしまったから…

SAKHALIN ROCK
https://www.youtube.com/watch?v=_X9QxFaHJwA

兎に角、トンコリを弾けるようになりたい!
という衝動にかられ、即、アイヌの友人にメールしました。

血が騒いだ…っていうやつです。

お金もあんまりなかったので、かなり無理なお願いをしたと思います。
そんな無理を受け入れてくれたウタリの方々に、心の底から感謝しております。

イヤイライケレ

【極東カラフトの超級弦楽器トンコリ】

という言い方は、TONKORI KING である OKIさんの Twitter からの引用(パクリ)です。
OKIさんと初めて話をしたのは、2008年の北海道での「先住民族サミット」で、
後の2011年に沖縄の名護で再会することになります。
OKIさんには沖縄で、かれこれ4回?ぐらい会ってると思います。

OKIさん曰く、

「自分で作ればいいのに…作れるよ」

いつの日か、トンコリ、自分で作りたいです。

ちなみに、僕自身で手を加えたところは、ニス塗りと、
カラクイ(からくり棒)を少し短く切り揃えてます。

五絃で、音を増幅させる胴体は空洞になっているので、
見た目よりは圧倒的に軽いです。
ギター等に比べると、増幅用の胴体の容積は非常に少ないと思います。

本来、大きな音を出すための楽器ではなかった?

あ、そうそう、音ではなく声なんです、声と言います。
その概念が、腑に落ちると、不思議なことに、
大きくて、いい声が出るようになりました。

胴体の中には、ラマトフ(アイヌ語:魂)が入ってます。
僕のトンコリには、沖縄本島北部最高の聖地アシムイの、
カルサイト(方解石)がインストールされてます。
ラマトフがインストールされた瞬間から、

トンコリは、精霊になると言われてます。

やはり、楽器の領域をはるかに超えた、超級弦楽器?

PEACE


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