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神々のうた 大地にふたたび ~アイヌ少女・知里幸恵の闘い~ [愛奴通信:AINU journal]



その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

大正十一年三月一日
知里幸恵

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『アイヌ神謡集(あいぬしんようしゅう)』 知里幸恵 編纂・翻訳 より引用

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沖縄の「サバニ」とアイヌの「イタオマチプ」 [愛奴通信:AINU journal]

沖縄には、「サバニ」という名称の木製の小型舟があり、
アイヌには、「イタオマチプ」という名称の木製の小型舟があります。

その昔、サバニは、一本の琉球松の大木を刳り抜いて造る刳船(くりぶね)だった。しかし、三司官・蔡温が森林資源の保護と造林の目的から樹木の伐採を制限(1737年に始まった杣山政策)したことから、複数枚の板を接(は)いで造るハギンニ(接ぐ小さな舟の意)が造られるようになったといわれている。

ハギンニを誰がいつ考案したかということについては、明確にわかっていない。とはいえ発祥、あるいは後の一番の生産地は漁民の町・糸満であることは疑う余地はないだろう。また材料もいつの頃からか、宮崎県日南地方育成、厳選した「飫肥杉(おびすぎ)」を使用し制作するようになり、今日までその技術が受け継がれてきた。

(海の技 サバニ大工・大城清さんに聞く より抜粋)

『モモトVol.19(島の手技)』 より引用

日本列島の、南と北の小型舟、「底板 + 側板」という、
基本的によく似た構造です。
(底板と側板というのは、正式名称ではなく、僕の勝手な呼び方です)

木製の小型舟は丸木舟をベースとして、進化したものと考えられるので、
極端には違った構造にはならないはずですが、
材料の緊結の方法には、大きな違いが見られます。


サバニは「フンドウ」と「竹釘」で材料を緊結します


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Photo by Toshi

フンドウ:二つの三角形がくっついたような形状のくさびで、
材料を引き寄せるデザインになっています。
(これは糸満の西村のハーレー用のサバニを、H.28のユッカヌヒーに撮影)


イタオマチプは「縄」で板をとじ合わせていきます


ここからイタオマチプの呼び方を得た、アイヌ独特の工法となる。釘も接着剤も使用しないで、丈夫な縄で板を張り、舟の容量を大にするのだ。板をとじ合わせる力もコツも要る時間のかかる作業になる。昔はどのような材料の縄を使用したのかは古い文献にも記述がないが、舟の精巧さからみて優れた素材だと考えられる。ここでは麻のロープを使った。板はチプパリという。

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1989年、180年ぶりのイタオマチプの復元作業の様子

『アイヌ民族写真・絵画集成 2 民具』 監修:萱野茂 より引用

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イタオマチプ【itaomacip】 より引用

アイヌは、松前藩によって、それまで行っていた海外交流を、
18世紀の初頭に消滅させられます。
と同時に、海外交流のツールである舟・イタオマチプも消滅同然になります。

板綴(つづ)り舟 - アイヌ文化振興・研究推進機構
http://www.frpac.or.jp/manual/files/2002_06.pdf

製作のノウハウ・材料の詳細は、1989年の復元プロジェクトが、
資料として残されているので、今後も、復元は可能です。
ただ、事実上、イタオマチプは、現在使われていないので、
イタオマチプ本来の姿・機能としての復元・復活は絶望的です。

木製のサバニも、FRP製のサバニ・漁船に、その地位を奪われ、
本来なら、イタオマチプ同様に、
その姿をこの星の上から消していく運命だったはず…

ところが、カムイのいたずら?によって、木製のサバニは生き延びます。
(消滅するもの、継承するもの、すべてがカムイの意志)

 

サバニ帆漕レース


サバニ帆漕レース公式サイト
http://www.photowave.jp/sabani_s/

Googleで、「サバニ」で検索すると、Wikipediaの「サバニ」より、
「サバニ帆漕レース公式サイト」の方が、上位に表示されます。
(つうか、「サバニ」の検索結果の1位表示がこれ)

21世紀の今、サバニといえば、「サバニ帆漕レース」です(笑)
(レース用のカヌーとして再デビューですわ)

サバニの帆漕技術を継承する目的で、2000年の九州・沖縄サミットを記念して開催された「サバニ帆漕レース」は、その後も毎年梅雨明けの6月末から7月初めの日曜日に座間味島から那覇の間で行なわれており、県内外から年々その参加者を増やしている。

サバニ -Wikipedia より引用

糸満・サバニ「南洋ハギ」 舟大工2人、継承危機
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-202203.html
[琉球新報]

↑こんなニュースもありましたが、沖縄のサバニやサバニ造りは、
継承されていく方向へ向かっていると思われます。

多く大人たちの、(ビジネス的)仕掛けもあり~の、
それに賛同する大人たちも、たくさん出現し~ので、
「サバニ」にとっては、ひとまず、めでたしめでたし~

まわりが海に囲まれた、島国に住んでいる、
ウチナーンチュやヤマトンチュは、海洋民族です。
(もちろん、もアイヌも)

海遊びがポピュラーになるのが、自然な流れだと思います.
(ハワイイは、アウトリガーカヌーが州技どすえ~)

Sailing Ship Sabani 沖縄のサバニ職人
https://www.youtube.com/watch?v=T-DK5TlKD1Q

098TV #22 座間味サバニレース https://www.youtube.com/watch?v=Hy6T7ndWWt0

2012年第13回サバニ帆漕レース 座間味~那覇 女海想チーム
https://www.youtube.com/watch?v=Prwqnvfpfss

ちなみに、サバニの進水式には「シナウルシー」、
イタオマチプの進水式には「チプサンケ」と呼ばれる儀式が行なわれます。

PEACE


ニール・ゴードン・マンロー(満郎)先生と二風谷のアイヌ [愛奴通信:AINU journal]

ニール・ゴードン・マンロー
(Neil Gordon Munro、1863年6月16日 - 1942年4月11日)は、イギリスの医師、考古学者、人類学者。

日本人女性と結婚し、1905年(明治38年)に日本に帰化した。

1993年…平取町二風谷(にぶたに)にマンロー邸を建てて暮らし、結核患者に献身的な医療活動を行った。アイヌと親しくなった彼は、9年後、ここで亡くなる時に、コタンの人々と同様の葬式をしてくれるよう遺言した。マンローの人類学関連の蔵書は以前から親交があったフォスコ・マライーニに譲られ、アイヌ研究の遺稿はマライーニからロンドン大学へ送られ、人類学者のセリーグマンの手によって『AINU Past and Present』としてまとめられた。

アイヌ文化の理解者であり、アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残した。映像の大部分は、網走の北海道立北方民族博物館で見ることができる。彼の旧宅兼病院であった建物は、北海道大学に寄贈され、北海道大学文学部二風谷研究室として活用されている。一般公開はされていない。毎年6月16日マンローの誕生日は、二風谷では「マンロー先生の遺徳を偲ぶ会」が開かれている。

マンローのコレクションはスコットランド国立美術館に収蔵され、2001年の日本フェスティバルで公開された。

ニール・ゴードン・マンロー -Wikipedia より引用

マンロー先生、実は、結婚を4回しています。
(やるなぁ)

4人の奥さんの中に、日本人が2人いて、
二風谷での生活は、最期の伴侶である、”木村チヨ”さんと一緒でした。

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1933年に完成した、二風谷の自宅の玄関前に立つマンローとチヨ夫人。2人のうれしそうな笑顔が印象的(写真:北海道大学提供)。

アイヌと共に生きた男 ニール・ゴードン・マンロー より引用

同じ時代に、同じイギリス人のキリスト教の宣教師であるジョン・バチェラーがいます。
バチェラーは、アイヌにキリスト教を伝道するために北海道入りし、
アイヌ語の新約聖書の翻訳出版を行なった他、
アイヌ語の言語学的研究と民俗学的研究に多くの業績を残しました。

医師と宣教師、という立場の違いからなのか、
アイヌと同様の葬式を遺言した…ぐらいに、
(マンロー先生は二風谷で亡くなります)
アイヌとアイヌ文化に溶け込んでいたマンロー先生と、
バチェラーとは、アイヌ観が大きく違います。

バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌが和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった」と記述している。

ジョン・バチェラー -Wikipedia より引用

同じイギリス人と言っても、バチェラーはイングランド
マンロー先生はスコットランドの出身です。

サッカーのワールドカップで、イギリスは、
イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド
という4つの国に分かれてエントリーしてきます。

世界わが心の旅 ~スコットランド 響き合うアイヌの心~


2001年10月28日に放送された、NHKの番組です。

何故?マンロー先生が、アイヌを保護したのか、
何故?萱野茂エカシは、スコットランドへ行くことが夢だったのか、
を、この番組は、明確に伝えてくれます。

世界わが心の旅 スコットランド 響き合うアイヌの心(1)
https://www.youtube.com/watch?v=N2FjkJluZTU
[3:03] アイヌの考え方でね、遠い所で亡くなっても、魂は自分の生まれ故郷に戻るもんだ…
[6:51] 昭和初期の二風谷~熊送りの儀式(マンロー先生の記録映像)
[9:41] スコットランド国立美術館

世界わが心の旅 スコットランド 響き合うアイヌの心(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Y1ZR50aW4EA
[0:00] 縄文様の由来
[2:10] マンロー先生の故郷「キンロス」
[5:35] ケルト民族の歴史~マンロー一族のルーツ「エバントン」
[8:11] ゲール語はアイヌ語と同じように日常語では使われなくなる…
[9:23] アイヌ民族が自分たちと同じような思いをしていると感じた…
[11:55] 言葉こそは民族の証、民族の魂
[12:07] ケルト文化を色濃く残す「スカイ島」

世界わが心の旅 スコットランド 響き合うアイヌの心(3)
https://www.youtube.com/watch?v=YkeFEt7ViL4
[7:53] マンロー一族の故郷「エバントン」でのアイヌ式の供養
[11:37] 人間はみな平等である アイヌだからと卑下するな 自分たちの文化に誇りを持て

【支配者が使う手口は何故か共通していて、まず、言葉を奪うことから始めます】
(それだけ、言葉・言語って重要、なんやろうなぁ)

「海を渡ったアイヌを求めて ~よみがえれ民族の伝統」
https://www.youtube.com/watch?v=JG3BCs1zum0


Kila: Topattumi (Kila & Oki)
https://www.youtube.com/watch?v=gRuG_TjHbGk

Kila・キーラ は、アイルランドのケルト音楽のグループ)

僕は、高校・大学でキリスト教を学びました。
イエス・キリストや、その教えであるキリスト教の素晴らしさは、
よく理解しているつもりです。
でも、キリストの死後、キリスト教の布教活動という名目で、
白人の連中が、先住民族を支配していくことになる…
という、この星の上の図式は好きじゃないです。

民族というのは、言葉であり、心(マインド)だと僕は思ってます。
(血の濃さとかじゃなくて、心の濃さ)

実は、民族とか国家とか、そういう分類のしかたはもう古い?
地球も含めて、この星の上に存在するすべてのものが、
大きな一つのグループじゃないのかなぁ、と思う今日このごろ…
(グループ名はもちろん「地球」)

PEACE


萱野茂・貝澤正 両氏の陳述 ~二風谷ダムとアイヌ~ [愛奴通信:AINU journal]

…有史以前からアイヌが持っていたアキアジの捕獲権をアイヌに返してほしいのであります。

…法律も条例もしょせん人間が人間のためにつくったものであり、運用次第で特例を設けることもできるでありましょう。

二風谷ダムというものはアイヌ民族にとっては招かざる客そのものであります。招かざる客がどうしても来るというのであれば、持参金のかわりに、持参物として沙流川アイヌの主食シペ(鮭)、アキアジの捕獲権を持参してくることを強く要求するものであります。

…残雪のころから初夏の季節まで、魚の切れない川、それが沙流川であり、アイヌにとっては食糧を貯蔵している倉と同じように思っていたのであります。

アイヌ民族の不幸は、西隣りの日本国が、日本人がアイヌモシリへ土足でどかどかと入ってきたころから、口では言えない悲しいことばかり、苦難の道が始まったものであることを先生方に知ってほしいのであります。

(”萱野茂氏の陳述”より抜粋)
…………

わずか120年の間に、よくも北海道をこんなに荒らしたものだと驚くのは私だけじゃないと思います。 魚を捕り尽くし、木を伐り尽くし、地下資源を掘り尽くし、必要がなくなったと言って鉄道を廃止するなど、そのうえ、人口が少ないからと北海道を核のごみ捨て場にしようとして、いま計画している…

開発とは何であるか、海岸や河畔の木を伐り尽くし、海辺や川辺をコンクリートでかため、近海には魚も回遊できず、川には休む淀もなく、産卵する砂利を取り尽くしている。その上、魚のえさになるプランクトンの原料になる広葉樹を伐り、育成が早いからと針葉樹の人工造林で山をおおっています。いまのままでの北海道の開発が進めば、北海道は生物も住めなくなる死の島になるんではないかと心配しているのは私だけではないと思います。

…狩猟民族であるアイヌに狩猟権と漁業権を与えるようにしていただきたい…

もうけるのは東京や大阪の大企業だけで、地元には何もメリットがないのであります…ダムが本当に必要なのか。見通しのないままに大きな国費を使って強行する。役人と企業と政治家だけのためではないか…

強制的に農業に転換させて、やっと定着したところで土地を取り上げようとしているから、再び狩猟民族に返してもらって、狩猟と漁業で生活できるように補償してほしいということ。それから、沙流川周辺のコタンの裏山にある社有林全部を元の地主であるアイヌに返してほしい。ただで北海道の土地を取り上げたのであるから、ただでアイヌに返してほしい。

(”貝澤正氏の陳述”より抜粋)

『先住民族アイヌの現在 (朝日文庫)』 本多勝一著 より引用

これは、アイヌの土地をダム建設のために強制収用しようとする開発庁側に対し、
二風谷のアイヌのなかで、最後まで買収に応じなかった、萱野茂・貝澤正両氏が、
1988年2月15日に札幌で開かれた北海道収容委員会の審理に出席した時に、
陳述した内容の一部です。

萱野茂・貝澤正両氏の陳述の全文は、
本多勝一さんのこの本で、初めて紹介されました。

【後の裁判で、二風谷ダムは違法となりますが、存続することになります】
(なんのこっちゃ)

1997年(平成9年)に二風谷ダムの建設は完了し二風谷地区は水没したが裁判は継続され、同年3月27日に二風谷ダム建設の是非について札幌地裁は判決を下した。この中で札幌地裁は土地の権利取得裁決の取消しなどを求めた原告側の訴えをいずれも棄却したが、「工事のための土地取得などはアイヌ民族の文化保護などをなおざりにして収用を行ったことにより、土地収用法第20条3号の裁量権を逸脱している」として収用は違法である判断した。
…………

また、アイヌ民族を国の機関としては初めて先住民族として認めた

二風谷ダム -Wikipedia より引用

あるダムの履歴書:二風谷ダム(1)
https://www.youtube.com/watch?v=4HxpQz8GZpM

あるダムの履歴書:二風谷ダム(2)
https://www.youtube.com/watch?v=ySncHMWOwD4

あるダムの履歴書:二風谷ダム(3)
https://www.youtube.com/watch?v=6IWfXK3s6ZQ

あるダムの履歴書:二風谷ダム(4)
https://www.youtube.com/watch?v=LpkzzPTErmA
[4:41] チノミシリ(アイヌの祈り…の対象となるもの)
[8:31] 病床の貝沢正氏からの(最期の?)メッセージ

あるダムの履歴書:二風谷ダム(5)
https://www.youtube.com/watch?v=91f8FEqMqgY
[0:00] 貝沢正氏葬儀 オッカヨクワ(男性の墓標)

あるダムの履歴書:二風谷ダム(6)
https://www.youtube.com/watch?v=xnRerCWWsyc
[4:02] 裁判での萱野茂氏のアイヌ語でのスピーチ

あるダムの履歴書:二風谷ダム(7)
https://www.youtube.com/watch?v=XjktG086NbM

あるダムの履歴書:二風谷ダム(8)
https://www.youtube.com/watch?v=62HEldjtaUk

あるダムの履歴書:二風谷ダム(9)
https://www.youtube.com/watch?v=uZn5ZYloxoE

アイヌの墓標


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1992年2月、北海道ウタリ協会副理事長故貝澤正さんの葬儀が沙流地方二風谷で行われた。アイヌ伝統文化継承に積極的であるこの村でも、アイヌプリ(アイヌの習慣)のよって行なわれたのは、20数年ぶりであったという。
遺言により催主は萱野茂。

『アイヌ民族写真・絵画集成 1 祭礼』 監修:萱野茂 より引用

オッカヨクワ(男性の墓標)が写っています。

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白老地方では、男性用の墓標は槍先、女性用の墓標は縫い針の頭部をかたどったものだといわれます。

アイヌ文化入門 より引用

アイヌとは人間のことです。
僕は、様々な問題や様々な感情に、自分が流されそうになる時には、

「それは、人としてどうなんやろう?」

って考えるようにしています。
そうすると、答えみたいなものが見えてくる時があります…
(ただ、同時に、人間って何?っていうテーマが常にある)

PEACE


カムイとカミの違い ~『アイヌの世界観』より~ [愛奴通信:AINU journal]

日本のカミは人間の不平等を肯定する

カミの観念についてみると、アイヌカムイと日本上代のカミとのあいだに自然現象をはじめ、動植物、人工物など多様なものに神性・霊力を認めるという点では基本的に違わない。また、カミには善いカミと同時に悪いカミも認めるというように、カミを道徳的基準によって一律に定義するという考えに基づかない点においても同じである。

しかし、カムイの観念においては、動物、植物といった自然神が重要な意味を持つこと、人間も死後カムイとなるというように人間とカムイとは同等であることが強調される。人間を含め万物は平等な関係にあると考えられる。これに対し、日本上代のカミの観念においては自然神それ自体よりも氏族の祖としての神といった意味がより重要になる。人間は一般に死後もカミとはならないと考えられる。これに対し、天皇をはじめ、特定の氏族の祖としてカミが想定されるように、特定の人間集団の祖としてカミがとくに意味を持たされる。特定の人間の集団がカミとのつながりを持つ点で選別され、何らかの政治的、宗教的地位を持つことになっている。カミの観念が人間の不平等を肯定する論拠となることが特色である。この点においてカムイと大きく異なるのである。
…………

上代日本人とアイヌのあいだで自然崇拝という点では異ならないといえるが、人間と神との関係の認識という点においてはこのように大きな相違がみられるのである。

すべてのものは平等

アイヌの世界観は、自然を含めすべてのものの本質的平等性を根本として成り立っている。これに対し、上代日本における世界観においては、世界像、カミとの関係をはじめ明確な上下関係を想定したものとなっている。

上代日本における世界観がアイヌの世界観と大きく相違する点は、一つには弥生時代以降の農耕を基盤として発展した社会・政治的体制によるものということができる。

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『アイヌの世界観―「ことば」から読む自然と宇宙』 山田孝子著 より引用

カムイとカミの違い、それぞれの観念の相違点について、
山田孝子さんが、素晴らしいアプローチをされているので、
この場にシェアさせていただきました。
これだけの抜粋では、すべてを理解することはできませんが、
いろいろと考える、きっかけの一つにはなると思います。

カミには、天津神と国津神があります。
高天原を追い出された、アマテラスの弟のスサノオは、
出雲に降り立ち、ヤマタノオロチを退治した後、
クシナダヒメと結ばれ、オオクニヌシが生まれます。
(スサノオは天津神で、オオクニヌシは国津神)

僕は、高校・大学がプロテスタントだったので、
聖書キリスト教に関しては、学校でも勉強しました。
礼拝もあったし、賛美歌も歌いました)

聖書の世界(旧約・新約)は、神と人間とは、別次元の存在であり、
神はいつも愛に満ちているかもしれないけれど、上から目線なような気がします。
(つうか、人間を創造されたのが神)

カムイ、カミ、神というものは存在すると信じて生きてきましたが、
宗教は嘘でできていると、高校生のときに悟りました(笑)
(支配者層に都合のいいように捏造されている?)

【すべてのものは平等…というアイヌの世界観、僕は大好きです】

カムイとアイヌ(神と人間)の本来の関係は、こうあるべき、 いや、こうだったのではないかと思ってます

この星の上には、いろんな人がいて、
カムイやらカミやら神やら、やらやらやら…がいます。

人それぞれ、考える事、感じること、思うことは、
違っていてもおかしくはないし、皆が同じである必要もないけれど、
今の僕は、アイヌの世界観を、もっと学習して、
自分の内なる世界に…腑に落としていきたいです。

アイヌ絵本4「白い犬の水くみ」
https://www.youtube.com/watch?v=3qyHeZ7M50M

アイヌ絵本1「スズメの恩返し」
https://www.youtube.com/watch?v=ePAyWH-fXEQ

PEACE


アイヌ文様の世界 ~北海道と樺太の違い~ [愛奴通信:AINU journal]

この広い宇宙の中の生物でおそらく文様を持つことができたのは人間だけではないかと当初思っていました。しかし、そうではないと今私は考えるようになりました。人間は文様を持っていなかったからこそ「持ちたい、持とう」と思ったのではないかと、逆なのだと思ったのです。
…………

アイヌ文様は彫刻と刺繍に多く施されます。
…………

刺繍文様は女たちの手によって製作されます。母から娘へ、そして孫娘へというふうに女の伝える重要な仕事です。つまり刺繍文様をみれば、その女の所属する家系が、かつては判ったわけです。
…………

アイヌの女たちは、その家のあるいはそれぞれの置かれている地方の歴史や希望を背景にしながらも、実に自由に文様を刺しています。女の思いが込められていると言っていいと思います。
…………

…どの衣服にも満遍なく共通している文様があります。この共通のする文様こそが、アイヌ文様の基礎となる文様といえるわけです。アイウシモレウという二つの文様ですが、アイウシは刺(とげ)のあるという意味で、モレウは渦巻きの意味があります。
…………

魔物というのは、これもアイヌにとってはカムイ(神・自然)なわけです。このカムイというのは、アイヌ(人間)と同じように、刺や渦巻きといったものを嫌うものだから、寄りつかないと考えたわけです。また、一方ではそれをアイヌが身につけることによって、自然と一体になりうる、力やエネルギーを受け取れるという考えもあったのかもしれません。

文様が置かれる場所が袖口だったり、襟元、裾だったりしますが、そういう場所から魔物が侵入するのだという考えによるものです。また、衣服の背後にカムイシキと呼ばれる神様の目が置かれたりするのは、その目によって守られるという考えによっています。

アイヌ文様は、アイウシとモレウという文様を主としながら、左右対称の連続模様になっています。衣服という限りあるキャンパスに文様を刺すわけですから、いろいろの技術が必要になってきます。連続模様を止める技術が必要になります。そこで、ハート型の文様やつり鐘型の文様が止めの部分に多く使用されるようになるわけです。また、中継ぎの部分には、シク文様といわれる菱型だったり三角形の文様が違和感なく使われます。
…………

…ただ、樺太における文様には、具象的な文様に近づいていると思われる部分があるといえます。

「アイヌ文様の世界」 知里むつみ(知里森舎代表)

『アイヌ民族写真・絵画集成 3 文様』 監修:萱野茂 編集:知里むつみ より引用

(知里むつみさんは、知里幸恵さんの姪です)

アイヌ紋様基礎講座
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/2648/lernejo/aynu/ikarpe.htm

北海道アイヌと樺太アイヌは、魔除けの意味をもつ文様の基本パターンは、

●アイウシ(刺)
●モレウ(渦巻き)
●シク(菱型)

ほぼ同じなのですが、知里むつみさんの文章にあるように、
基本パターンとは異なった文様のパターンも持っていたようです。

僕は、文様よりも、着物のデザインそのものに、両者の違いを強く感じます。

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シサム(隣人)たちの文様
アイヌ文様は縄文土器に由来し、八世紀ごろ石狩川流域に発生したと言われるが、樺太に住んでいたアイヌを経由してシベリア諸民族、さらには中央アジアへと類縁の文様をたどることもできる。

樺太アイヌのマーテクフイミイ(女性服)
提供:資料館ジャッカ・ドフニ 撮影:青柳文吉



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北海道に移り住んでからも、民族伝統の文様を大事にしていた樺太アイヌの女性

撮影:掛川源一郎

『アイヌ民族写真・絵画集成 3 文様』 監修:萱野茂 編集:知里むつみ より引用

明らかに、樺太アイヌの着物のデザインは、北海道アイヌとは雰囲気が違っていて、
洋風というか大陸風です。
(もちろん、和風なデザインのものも見られます)

特に、頭飾りのマタンプシが、北海道アイヌは鉢巻なのですが、
樺太アイヌは、帽子です。
(帽子っぽい形状のもの?)
当ブログの別記事に、樺太アイヌの藤山ハルさんの写真がありますが、
やはり、鉢巻ではなく、帽子をかぶっておられます。

『オホーツク街道』 ~樺太アイヌ語の最後の話し手~
http://kahunatrade.com/blog/ainu/1262.html

樺太には、アイヌ以外にも、
ニヴフ(ギリヤーク)や、オロッコ(ウィルタ)と呼ばれる他の民族も住んでいたので、
陸続きである、彼らとの交流は多かったはずです。
当然ながら、衣装(ファッションセンス)は、似た様なものになると思います。

実は、トンコリは、樺太アイヌだけでなく、
ニヴフ(ギリヤーク)や、オロッコ(ウィルタ)の人々にも、
演奏されていたようです。

《シンリッウレシパ(祖先の暮らし)》第6回 北方の楽器たち(3)
http://www.ainu-museum.or.jp/siror/monthly/201508.html [月間シロロ8月号]

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2007年6月16日に、横浜のぷかり桟橋に停泊中のホクレアの横で、
アイヌによるカムイノミが行われました。
その時に、アイヌの文様と、ポリネシアン・タトゥーが、
どこかしら似たようなパワーを放っているのを強く感じて、

【寒い所のアイヌは、着物に文様をつけているけど、
暑い所のポリネシアンは、直接肌に文様をつけた…】

みたいな話を、そばにいた、琢磨仁さんとしたような記憶があります。

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TAVAさんの腕にはタトゥーがあります。

Photo by Jin Takuma

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ハワイイ島のカヌー、マカリイのキャプテンの、
CHADDさんの腕にもタトゥーがあります。

Photo by Jin Takuma

ドキュメンタリー映画「TOKYO アイヌ」プロモーション用映像
https://www.youtube.com/watch?v=_cxFfl9mcyU

[4:08] 国境を越えて
2007年6月16日にホクレアを訪れたアイヌの方々の様子がちらっと出てきます。

PEACE


ルカニ スルク パナ(猛毒素)~葛野辰次郎エカシのメッセージ~ [愛奴通信:AINU journal]

大自然というものは 汚染されれば人間と同じように手や顔を洗う その自然の持っている浄化能力の高さをよいことに 偉ぶる魔物たちが猛毒素をあやつり偉ぶっているが それもすべて神様の目の届かぬものではない と昔の爺様はこのように伝えてきた

OKI DUB AINU BAND - 2014.7.19 大MAGROCK vol.7
https://www.youtube.com/watch?v=NpZSrYyjDVc

[37:18] OKIさんのMC:葛野辰次郎エカシのお話 より引用(書き起こし)

これは、2014年7月19日(土)、
青森県下北郡大間町(大間原発敷地隣接共有地)で開催された、
反核ロックフェス『大MAGROCK vol.7』での 、
OKI DUB AINU BAND のライブの動画です。

OKIさんのMCで、葛野辰次郎エカシが、
本来、トリカブトの毒を意味する、

「ルカニ スルク パナ(猛毒素)」というアイヌ語で、放射能のことを表現した…

というくだりが、僕の心の中に、響きわたりました。

「歌詞は葛野エカシ(葛野辰次郎:アイヌ語を話し、カムイノミ=神祈りの伝承者で、アイヌの精神的指導者としてエカシ=長老と呼ばれた。2002年没)から。もう亡くなってしまったけれど、アイヌ語の後生に残る素晴らしい功績を残した人。もし彼を日本の職業で言うなら思想家、哲学者だね。昔、お世話になっていたことがあって、葛野エカシの神様への祈り言葉が好きなので、拙(つたな)いながらもそれをオレがやらせていただきました。 これは彼に直接聞いたんだけど、録音物としても残っているんだよ。アイヌ語がわかる最後の世代という重い責任を背負っていたと思います。立派な人でした。」

OKI「SAKHALIN ROCK」ロングインタビュー より引用

OKIさんの楽曲には、葛野辰次郎エカシの言魂がよく使われています。
中でも、僕が一番好きな楽曲は、「TOPATTUMI (襲撃)」です。
この楽曲は、OKIさんが DUB AINU BAND を結成する前、
ソロでのデビュー・アルバムに収録されています。
最初からやってたわけですな
OKIさんのライブでも、オープニングによく演奏されていて、
トーキトランランというアイヌの伝統楽曲から始まる、
TOPATTUMI のかっこよさは、格別です~

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OKI KAMUY KOR NUPURPE より引用

Oki Dub Ainu Band "Tupattumi" Live@Pokhara Street Fes 2011 PT.2
https://www.youtube.com/watch?v=JKOHkLZWfg8

Oki Dub Ainu Band - Topattumi
https://www.youtube.com/watch?v=tXKh_HJcc4Q
Lyrics by Tatsujiro Kuzuno 葛野辰次郎

よく考えてみたら 北海道の先住民族だけが この大自然を神様と思っていないはずだ 心のある人だったら この大自然が神様と思うんだろう

アイヌ・最後の語り部 2011年 www.youtube.com/watch?v=EHjwnuPWUX4
[2:36] 葛野辰次郎エカシのメッセージ より引用(書き起こし)

この動画には、葛野辰次郎エカシの葬儀の模様が収録されています。

葛野辰次郎 翁(エカシ)

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「アイヌのくせにアイヌ語も知らないで、何がアイヌだ」。 22歳の若さで亡くなった長男の言葉を座右の銘に、民族の言魂の伝承者となった。

『アイヌ民族写真・絵画集成 4 伝承』 監修:萱野茂 編集:横山孝雄 より引用

放射能という言葉は、アイヌ語だけでなく、沖縄の方言にもないし、
江戸時代の日本語にもなかったはずです。

放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞した、
マリ・キューリーが、放射能 (radioactivity) という言葉を生み出しました。
結局、マリ・キューリーは、その放射能による被爆(白血病)で亡くなります。
(なんじゃ、そりゃあ)

NHK・追跡者 ザ・プロファイラー「マリー・キュリー(キュリー夫人) 科学愛こそ私のプライド」
http://www.at-douga.com/?p=8653

日本の原子力発電所の歴史は、まず、
1955年(昭和30年)11月14日に日米原子力研究協定が調印され、
(1988年7月17日から、効力が発生)
同年の1955年(昭和30年)12月19日に国内の原子力基本法が成立し、
1965年5月4日に東海発電所が日本初の商業用原子炉として稼働しました。
(1998年3月31日営業運転終了、日本初の廃炉作業に突入中)

実は、国内の原子力基本法の成立する前に、
日米原子力研究協定が結ばれていたわけで、
日本の原子力産業というのは、アメリカによって、
最初から完全にコントロールされていたことになります。

【放射能 = 猛毒素】

という葛野辰次郎エカシのメッセージを、
理解できないヤカラが、この星の上にはたくさんいます…
(僕には、彼らのことが、理解できません)

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沖縄で、OKIさんから直接手渡された、OKI DUB の「NO NUKES」ステッカー
(僕は、このデザインのTシャツも持ってます)

BLACK MILK - RAIO(6years old) / LIBRES SOUND DUB
https://www.youtube.com/watch?v=-sdFc-aJg_I

PEACE


『先住民族アイヌの現在』~「民主主義」という言葉の意味について~ [愛奴通信:AINU journal]

ここで、「民主主義」という言葉の意味について、私なりにというか、先住民族であり少数民族の一人として本気で考えてみようと思います。

その理由でありますが、仮に、仮にです。100年昔に北海道に大和民族といいますか、日本人が数万人暮らしていて、北海道の隅から隅まで日本語で名前をつけてあったとします。そこへ北の隣からロシア人というか、ソビエト社会主義共和国連邦の人々がどかどかと入ってきて、先住者であった日本人に一言の断りもなしに、ここはいいところだとばかり次から次と仲間を呼び、あるいは人口が自然に増えて、100年後には日本人は数万人で少しも増えずに、後から来たロシア人が5百数十万になってしまった。そこで、先住者の日本人は、地名は日本語であり、数が少ないとはいえここは日本の国だ、出て行けとは言わないが、年貢ぐらいは出せと言うでありましょう。昭和63年現在、アイヌが置かれている日本人との力関係はそのようなものなのであります。そこへいくと民主主義なるものは、後から来た者であっても数さえ多ければ、先住者・先住民族のアイヌの権利などは無視して、アイヌが何を言っても、国は、道は、市町村は、アイヌの願いや訴えに耳をかそうとしないのであります。数や力で決められる民主主義なるものは、数の少ない先住民族、アイヌ民族に言わせると全くと言ってもいいほど頼りにもならない、数の暴力に見えて仕方がないのであります。それは、私一人だけの考えではなしに、世界の先住民族、そして少数民族アイヌの悩みでもあります。したがいまして、少数民族アイヌにも役に立つ本当の民主主義、つまり数や力で、アイヌに断りもせず勝手に制定された何々法というのではなく、先住民族であるアイヌ族の言い分をも十分に斟酌(しんしゃく)した、つまり聞き入れてくださる収容委員会であってほしいと思うのは、私一人ではないと思うわけであります。本当の民主主義とは、少数者の意見も生かすことではないでしょうか。

(”萱野茂氏の陳述”より抜粋)

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『先住民族アイヌの現在 (朝日文庫)』 本多勝一著 より引用

これは、アイヌの土地をダム建設のため強制収用しようとする開発庁側に対し、
二風谷のアイヌ民族のなかで最後まで買収に応じなかった萱野茂さんが、
1988年2月15日に札幌で開かれた北海道収容委員会の審理に出席した時に、
陳述した内容の一部です。
(買収に応じなかった、萱野茂さんと貝沢正さんの二人が出席しています)
収用委員会(しゅうよういいんかい)とは、地方自治法に基づき都道府県に置かれる行政委員会で、その職務は、土地収用法の定めるところにより、土地収用に関する裁決その他の事務を行う。

収容委員会 -Wikipedia より引用

萱野茂・貝澤正両氏の陳述の全文は、
本多勝一さんのこの本で、初めて紹介されました。

萱野茂さんの、「民主主義」…のくだりは、
アイヌだけでなく、世界の先住民族にもあてまる問題だと思います。
(ネイティブ・アメリカンやネイティブ・ハワイアンや…)

「数や力で決められる民主主義なるものは…数の暴力…」

という表現には、僕の脳の中の神経回路が一旦パンクして、
新たに再構築されたのでは?と思うくらいのショックをうけました。
シナプスの繋がり方が変わった?)

民主主義というシステム対しての考え方が、
根底から完全に崩れ落ちたって感じです。
(民主主義と資本主義に関して、僕なりの整理がつきました)

【バビロンシステムは、民主主義の中にも存在している】

あるダムの履歴書:二風谷ダム(6)
https://www.youtube.com/watch?v=xnRerCWWsyc
[4:02] 裁判での萱野茂氏のアイヌ語でのスピーチ

「北海道」は、松浦武四郎さんが名付けたものですが、
アイヌの言葉では、「アイヌモシリ(人間の静かなる大地)」と言います。

アイヌモシリ ~アイヌ民族の誇り~
https://www.youtube.com/watch?v=4ZgCa4Vnj8s

この本は、父が亡くなった後に、父の本棚の整理中に見つけた本で、
今でも大事に持ってます。
(沖縄まで持ってきてます)

PEACE


アイヌの「ウコチャランケ」とハワイイの「ホ・オポノポノ(Ho’oponopono)」 [愛奴通信:AINU journal]

ウコチャランケ


【HTBセレクションズ】57年目の証言「アイヌ民族 萱野茂さん 平和への願い」
https://www.youtube.com/watch?v=YNJpLJ24EAQ

[4:48]
「ウコチャランケ」という言葉があって、

ウ=互い コ=目的 チャ=言葉 ランケ=降ろす

【すべて話し合いで解決する】

どんなに切れる刀よりも、どんなに大毒を塗った矢よりも、
大切なのは言葉だと思っています。

「ウコチャランケ」の精神を、もう一度世界中の人たちへ…

それと、自然をもっと大事にして欲しい。

萱野茂さんのお話:動画より書き起こし)

「ウコチャランケ」は、
お互いに、心の中の感情を、言葉としてこの場に降ろし、
公正に判断しようという、アイヌの問題解決システムです。

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写真は2008年の「先住民族サミット」

Photo by Toshi

 

ホ・オポノポノ(Ho’oponopono)


ホ・オポノポノ(Ho’oponopono)は、ハワイ語で、「心の洗浄。祈り、議論、告白、後悔、互いの補償と許しによって関係を整える家族会議」と定義される言葉。この言葉は、家族のあるいは個人の癒しの方法を指す言葉として知られる。

ホ・オポノポノ -Wikipedia より引用

伝統的な「ホ・オポノポノ(Ho’oponopono)」というのは、
家族の中でピリキア(問題)がおこったときにする会議。
ハクと呼ばれるリーダーが、その場を仕切ります。
(家族の中の長老か、家族を良く知っている誰か)
そして、そのピリキア(問題)に関係している人全員が参加します。
まずプレ(祈り)をささげ、ハクが一人一人から話を聞いて行きます。
表面に見えているトラブルから本質的な原因を探っていき、
根本的な原因が見つかったら、その原因となる行為を行った側は許しを請い、
行われた側はその相手を許します。
最後にまたプレ(祈り)で会議を閉めます。
いったん「ホ・オポノポノ(Ho’oponopono)」が終わったら、
二度とそのことを蒸し返さないのが絶対的なルールです。
完全に問題が解決がされていない場合は、
「ホ・オポノポノ(Ho’oponopono)」を始めからやり直します。

(参考文献:『ハワイ式問題解決法ホ’オポノポノ』 E・ビクトリア・シューク

「ポノ(pono)」というのは「正しい状態」「あるべき状態」のことで、
「ホ・オポノポノ(Ho’oponopono)」というのは「ポノにする」という意味。

この場合の「家族」とは、「オハナ(ohana)」 のことで、
「オハナ(ohana)」 には、実際の家族だけでなく、
家族同様のグループ・団体等も含まれます。

「ホ・オポノポノ(Ho’oponopono)」を、個人で完結することができるように、
ハワイの人間州宝モナ・シメオナ女史が、1980 年代に創始したのが、
SITH(セルフ・アイデンティティ・スルー・ホ・オポノポノ)です。

僕は、アイヌの「ウコチャランケ」と、
ハワイイの「ホ・オポノポノ(Ho’oponopono)」は、
非常によく似たシステムだと思ってます。

結論を出すまでの、話し合いの最中の心の動き、が重視されているところは、
全く同じと言ってもいいかもしれません。

いわゆる、議会制民主主義の多数決で結論を出すやり方とは、
根本的に違います。

実は、議会制民主主義って、少数派の意見が通らない仕組みになってます。
多数派が、数的優位にものを言わして、自分達の都合のいいように、
容赦なく結論を出していきます。

議会制民主主義の政治は、グループの質よりも数の多い方が、
主流になってしまうシステムなわけで、
このシステムの性質が世の中をおかしくしてる要因の一つだと僕は思ってます。
(政治は、ただの椅子取りゲームになってしまってる)

民主主義 = 平等で自由

っていうのは、完全に嘘であり、我々の大半は、そのことに気づいてません。
(つうか、完全に洗脳されてます)

21世紀に突入し、この星の上では、
民主主義とタッグを組んだ資本主義経済というものが究極に発展した結果、
国家よりも、企業の方が権力が強くなり、人の命よりも経済が優先されるという、
わけのわからん世の中を作り出しました。
(いわゆる、バビロンシステム)

先住民族と呼ばれる人たちの持つ感性を、
今一度、見直す時では、と強く思う今日このごろです…
(え?もう手遅れちゃうかって)

PEACE


アイヌの人々にとって、音楽とはカムイ(神)との対話手段のひとつ [愛奴通信:AINU journal]

トンコリ
は木製の細長い楽器。まるで舟のような形をしている。ブリッジが両端に固定され、弦が張られており、指でつま弾く音は独特の優しさを持つ。

「トンコリは一時期、廃れてしまっていたので、昭和20~30年台の音源を聞いて独学しました。研究者に尋ねても、文献や研究の中にはグルーヴ感はない。やはり、音楽の持つグルーヴ感の追求は自分自身でやるものだと思う」。廃れていた伝統的なトンコリを”発掘”していくと同時に、今の人に届く音作りも行った。奏者でありながらも、楽器制作を行うOKIさんは弦の数を変えたり、エレクトロニック・トンコリを制作したりと試行錯誤を繰り返した。そのかいあって、OKIさん率いる OKI DUB AINU BAND の評判は、国内はもとより、欧州やアメリカにまで及んでいる。

「地球は何千年もかけてグローバリズム化している。ギターのような合理的な楽器が現れたら、ギターを取るのが普通でしょう。だけど、グローバリズム化しすぎると、跳ね返していく波がある。それが伝統じゃないかな」と、若い世代を中心に、トンコリが再注目されている現状を分析する。

OKIさんには目標とする音があるという。「自分の中に響いているトンコリの音がある。演奏や、楽器作りを含めてその音に近づきたいですね」。OKIさんがトンコリを抱え、糸蔵を肩に載せる。両手の指で弦をつま弾くと、音が雨のようにこぼれてくる。音は体や心に染み渡る。

アイヌの人々にとって、音楽とはカムイ(神)との対話手段のひとつだという。願わくは、これからも歌声が、音が、祈りの声が北海道の大地に響きますよう。そして、多くの人々の心に届きますよう。もちろん、アイヌのカムイにも。

(文:井上秀樹)
…………

スペインのバルセロナあたりではアフリカから移民でやってきたアルジェリア人とモロッコ人が地元のフラメンコのギタリストとバンドを組むなんていうことは当たり前の出来事。人の流れとともに音楽もまた旅をする。島々が点在するこの日本列島を”弓の島”と名づけたのは確かアメリカインディアンだが、この島々を旅し、耳をすませば聞こえてくる古くて新しい「音」がある。隣の島、カラフトは樺太アイヌの弦楽器トンコリの生まれ故郷。遠く、カムチャッカ半島まで連なる千島列島、アイヌは海獣を求めて旅をしバラライカを楽しんだ。多民族との交流の中で揉まれ、進化していったアイヌの音楽は空を旋回する鳥のさえずり、滝壺の湧き立つ水の泡のようだ。その旋律にシベリアの祈祷師、シャーマンの焚く煙のにおい、そしてどこかなつかしい日本の原風景すらよみがえってくる。

(文:OKI)

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『翼の王国』 June 2008 No.468 ”ウポポ賛歌” より引用

これは、2008年の「先住民族サミット」へ出かけた時に乗った、
ANAの機内誌『翼の王国』からの引用です。
ほんとにタイミングよく、”ウポポ賛歌”という特集記事が目に留まり、
とりあえず、持ち帰りました。
(機内誌をTAKE OUTしたのは、後にも先にもこの時だけ)

じっくりと読んだのは、だいぶ後になってからで、
何気なく持ち帰った機内誌が、今となっては、僕の宝物の一つになりました。

当時、僕は、沖縄に引っ越す直前で、
糸満で、船大工さんのお手伝いをしながら、
アウトリガーカヌーを造る仕事の見習いの真っ最中でした。
(その後、プロジェクトそのものが頓挫)

那覇から札幌へ着いた時の、気温の差の激しさは、よく憶えています。

もちろん、トンコリにはまだ興味はなく、三線をかついでの、北海道入りでした。
二風谷で、三線を弾いいてたぐらいだもの)

写真は二風谷で見つけた、アイヌの丸木舟です。
船首と船尾に、イナウがセットされています。


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Photo by Toshi

音楽というのは、この星の上で暮らす人々が、共通に持っている文化です。

楽器やメロディやリズムやテンポは、多種多様ですが、
音を奏でるという行為は、示し合わせたように、
この星の上のあちらこちらで、行われています。

アイヌの人々だけでなく、この星の上の人々にとって、
音楽は、神との対話手段のひとつであることは、間違いありません。

【NO MUSIC NO LIFE】

音楽がなかったら、この星の上に存在する意味がない
(この星には、生まれてこなかった)

OKI - ORORO RAHA @ 知床斜里
https://www.youtube.com/watch?v=QBYkzDkUBOo

K.D earth/エトゥナンカラ@2007.11.11SHIBUYA BOXX
https://www.youtube.com/watch?v=3Oz2nadfSCs

K.D earth/etunankara solo!!
https://www.youtube.com/watch?v=zTje5s-dksg

ちなみに、K.D earth結樺健(ゆからけん)さんは、
僕が、トンコリを手にした2010年8月には、
すでに、お亡くなりになられてました…
(お会いしたかったです)

etunankara(エトゥナンカラ):アイヌ語で、出会い

PEACE


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