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エイサー進化論 ~琉球國祭り太鼓・昇龍祭太鼓~ [琉球通信:OKINAWA journal]

どんな「伝統芸能」にも始まりがある。
今は「創作」「現代版」或いは「コンテンポラリー」と呼ばれる芸能も
いつかは「伝統」の称号が与えられるかもしれない。
時代の風と呼吸しながら時にカタチや様式を変えながらも
その「命」をつないで生きてきたのが「伝統」であるのなら、
伝統とは「進化」の過程に過ぎないのかも知れない。
…………

伝統とは「様式美」であり「型の成立」であるならば、
神あしゃぎ、道じゅねーとしての「伝統エイサー」
競技場発表演舞型としての「青年エイサー」
如何なる地域、性別、年齢を問わないボーダレス型としての「創作エイサー」
そして今新たな「スタイル」として生まれて来た
劇場を拝所として展開されるプロセニアムスタイル
いわゆる劇場演舞型の「世界エイサー」がここにある。

エイサーは進化し続けているのであり、
僕らはその時代の目撃者なのである。

新・シマとの対話~第10話「エイサー進化論」
https://www.youtube.com/watch?v=GI9cF1ISFS4

新・シマとの対話~第10話「エイサー進化論」 より引用

亡くなった魂を弔う「伝統エイサー」と、
生きている魂を寿(ことほ)ぐ「世界エイサー」


DRUMS OF HOPE ~エイサーの可能性を今ここに より引用

世界のウチナーンチュ大会と連動して行なわれる、「世界エイサー」が、
2013年から、南島詩人の平田大一氏が理事長である、
沖縄県文化振興会が実行委員会事務局になり、
創作エイサーの一大イベントへとパワーアップしました。

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平田大一という南島詩人の存在 ~シマとの対話~ [琉球通信:OKINAWA journal]

沖縄よ何処へ Okinawa, Where Are You Going?

昭和3年(1928年)。初の海外講演会が開催された伊波普猷のハワイでの講演会は如何なるものであったのか!

当時の講演会の資料を手に入れて一気に読んでみた。

資料とはその講演会の内容を冊子にした一冊の本。タイトルもずばり!「沖縄よ何処へ」である。


私は琉球処分は一種の奴隷解放だと思っている。
ところが、300年間奴隷制度に馴致(じゅんち)された琉球人は
折角自由の身になったのに、将来の生活が如何に
成行くかを憂いて、泣き悲しんだということである。
彼らもまた、一旦解放された小鳥が、
長い間その自由を束縛していた籠を慕って
帰ってくるように、300年間彼らの自由を
束縛していた旧制度を慕って、その回復を
希うて已まなかったのである

(「沖縄よ何処へ」伊波普猷著/世界社版)

その当時の社会状況的におかれる「沖縄」が微妙な立ち位置であることを知りつつも敢えて!彼は叫ぶ。

「沖縄人よ自らの精神の解放を自らの手で促(うなが)せよ!」

伊波普猷のそのメッセージが実は「島人」「沖縄人」に向けられて強烈に発せられていることに僕は驚きと同時に不思議に頷(うなず)いてしまう。

80年前の文章なのに今、読んでも色あせない感覚があるのは何故だろう!

哀しいほどこのシマの精神の根っこは今も!変わっていないのかもしれない。

基地に泣きながら基地を手放せず、補助金に依存しながら自らの土地の「宝」には気がつかず、息子や娘を、やたらと皆「公務員」にしたがるこのシマの人の体質

「この島を背負って立つ!」

如き人種は生まれて来ないんじゃないかと強烈に思うのだ。

本土資本の会社や企業、人物をも、心中穏やかでなく敵視する傾向性もあると聞くがこれ全て「自身の自信の無さ」の現れである。生まれたシマへの自信の無さからくる異なるものへの「不信感」の現れであると思うのだ。

伊波普猷は云う。


実際のところいえば、島津氏の琉球入りよりも
廃藩置県よりも、もっと致命的のものである。
それにも拘わらず、60万県民は、今なお惰眠を貪り
その政治家たちは、党争に日もこれ足らないという
有様である。悲惨窮まることを言わなければならぬ。
彼らは当然いわゆる『御手入れ処分』を
受くべく運命づけられているのである


「御手入れ処分」とは、自分ではどうすることも出来なくなった案件を政府がしゃしゃり出てきて整理することを言うものであるらしい。もの云わぬシマの慟哭(どうこく)が聞こえてくる。

果たして僕たちはこの「シマの人」だと言い切って良いのだろうか?このシマはそれを認めてくれているのだろうか?

突然の雨と風が吹く那覇のマチの揺れる街灯を眺めながら、小さな僕の大きな決意。

僕がまずは!「新しい島人」の一人目を目指すのだ!

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『シマとの対話―琉球メッセージ』 平田大一著 より引用

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糸満の白銀堂の黄金言葉(くがにくとぅば) [琉球通信:OKINAWA journal]

白銀堂物語

むかし、糸満村の百姓美殿(みどん)が、薩摩と琉球を往来している薩摩武士の
真玉左衛門から金を借りたが、期限がきても金をかえすことができなかった。
左衛門が薩摩に帰国する数日前に、美殿の家に行ったが美殿はいない。
さんざん探したところ、洞窟にかくれている美殿をみつけた。
烈火のごとく怒った左衛門が刀を抜いて斬ろうとしたところ美殿は、
「私は決してあなたをだますつもりはありません。返したくても金の工面ができず、
恥ずかしくて顔むけできず、ここにかくれていたのです。諺にも、

意地ぬんじら一手引き、手ぬんじら一意地引き】

(意地が出たら手をひっこめなさい。手がでたら意地をひっこめなさい。
短期にまかせて手をだすなの意)

とあります。どうかご勘弁下さい。きっと来年こられた時はお金をお返しします」
と誠意をこめてあやまった。左衛門は理のある美殿のことばに刀を下ろし、やがて薩摩に帰った。

さて、故郷の薩摩に帰った左衛門がなつかしい家に帰ってみると、
なんと新婚間もない最愛の妻が、見知らぬ男と寝ているではないか。
カッとした左衛門は、
「おのれ、主人の留守に、ふとどき者めが」と一刀両断にしようとしたが、
ふと美殿の「意地が出たら手を引っこめなさい………」ということばを思い出し、
刀を納め、落ちついてよく見ると、男と見えたのは男装した彼の母であった。
訳をきくと、左衛門の留守の間、女二人では不用心と、母が毎日男装して嫁と寝ていたという。
もしも、美殿のことばがなければ、母と最愛の妻を殺していたかもしれない。

美殿への深い感謝の念をもって翌年琉球にきた左衛門は、大恩人美殿をたずね、
礼を言った上、借金を帳消しにしようと申しでた。
ところが美殿は金の工面がついたのでぜひ金を返したいという。
「受け取れ」、「受け取れない」、の押し問答のあげく
それではこの金で昨年美殿がかくれていた洞窟の前に、感謝の御堂を建てようということになった。

これが今に残る白銀堂である。

『沖縄の昔話』 朝日矢商事(株)発行 より引用

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糸満市・平和祈念公園の「平和の光の柱」 [琉球通信:OKINAWA journal]

沖縄本島南部、12月に入ると、朝晩の気温が20℃を下回ることになり、
いきなり、冬モードに突入します。
沖縄は、春と秋がない?つうーか、
いきなり寒くなったり、暑くなったりします。

糸満の冬の行事として、定着してきた感があるのが、
平和祈念公園の(記念じゃなくて、祈念です)、

【平和の光の柱】

ですが、喜屋武より南方面では、
「あれ、なんね?」って感じで、光の柱が目視できます。

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与那国島は「琉球ムー大陸」の沈まなかった部分 [琉球通信:OKINAWA journal]

『新説 ムー大陸沈没 沖縄海底遺跡はムー文明の遺産か?』

『沖縄海底遺跡の謎―世界最古の巨石文明か!?』

『海底宮殿―沈んだ琉球古陸と“失われたムー大陸”』


チャーチワードムーを「ポリネシアムー大陸」と呼び、それとは区別するために、
新たに「琉球ムー大陸」という概念を打ち出している、

木村政昭先生(琉球大学名誉教授、理学博士)

の著作は、どれも大変興味深く読ませていただきました。

沖縄で海底遺跡と言えば、与那国島か沖縄本島の北谷が有名です。

2007年のホクレア日本航海の直前と、
翌年の2008年に沖縄へ引っ越す直前に、与那国島に行ってます。

2回とも、石垣島からフェリーで往復したのですが、
片道、約4時間半の、わりとハードな船旅でした。
天候が不安定で、渡るのが難しいとこから「渡難(どなん)」 と呼ばれた島を十二分に味わいたいならフェリーがおすすめ

石垣島が見えなくなったころに、遠くに与那国島が見えてきます。

宿泊は2回とも久部良でした。
久部良は、その昔、糸満からの海人(ウミンチュ)で構成されていた集落です。

僕が、琉球弧で、沖縄本島以外の島に上陸したのは、まずは久高島で、
続いて、与那国島ということになります。

海底遺跡へは、船で2回行きました。
兎に角、目の前に現れる不思議な光景を事実として受け入れるしかなかったです。

【あれは、絶対に人工物です】

あの場所に、確実に、現代とは異なる、なんらかの文化・文明があったのは間違いないです。
島の南側に、摩訶不思議な遺跡が集中しているのも、太平洋とのつながりを匂わせます。

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Photo by Toshi

海底遺跡のある新川鼻へは、陸路でも1回行ってます。

僕が、最も強力なインパクトを受けたのが、「人面岩」で、
(ぶっちゃけ、島中がインパクトだらけですが)

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Photo by Toshi

どう見ても、ポリネシアン・トライアングル系?(海のモンゴロイド系)
の像によく見られる、舌を出した人の顔です。
(チベット系の人たちも、挨拶のときに舌を出しますが)

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Photo by Toshi

舌の部分は、別なパーツになっています。

これ、海が見える高台にあるんですが、
視界に入ったとたんに、思わず「なんじゃこりゃー」って大声で叫んでしまったもの…

頭の部分の角には、溝があって、
クレーンみたいなもので吊るせるような構造になっている?
(どこか、他の場所で作って、運んできたのか?)

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Photo by Toshi

僕が与那国島に興味を持ったのは、この「立神岩」の存在を知ったからで、
この景色を、この眼で見たい~という思いが、けっこう長く続いていたので、
「立神岩」を眼の前にしたときは、「あ、ほんまにあった~」って感じでした。

この近所に「サン二ヌ台」というのがあります。

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Photo by Toshi

「サンニヌ台」は、海底遺跡の続きで、海中に沈まなかった部分です。

2007年に行ったときは、近くまで行けたのですが
2008年には、立ち入り禁止になっていました。
たぶん、雨風による劣化?で、観光&見学には危険とみなされたからだと思われます。

与那国島に関しては、書ききれないぐらいのネタがあります。
琉球弧の中では、際立って、奇妙な島だと、僕は思います。

ちなみに、与那国島の夕陽は、海に沈むのではなく、台湾に沈んで行きます。
(台湾までは約110km)

2008年に、沖縄本島に引っ越してからは、
「足止めの法」をかけられてしまい、沖縄本島から出られなくなっている状態ですが、
最近、その「足止めの法」を解く呪文を伝授されたので、
そろそろ、また、あちらこちらにお出かけしたいです。

もちろん、与那国島は、最初に行きまっせ~

現代人が手に入れたもの、失ったもの…
どちらも、たくさんのものがありますが、
失ったものの中には、とても大切なものがあるような気がします。

ポリネシアでは消滅してしまったスターナビゲーションなのですが、
ミクロネシアのマウさんの協力があって、ホクレアはストーリーを始めることができたし、
トンコリも、OKIさんがパワーを注がなかったら、
アイヌの弦楽器として復活したかどうかは疑問です。

どうやら僕は、失ったものを復活させてきた人たちと、ご縁があるみたいです。

PEACE


アイヌによるハワイイ・ホクレアへの祝福(カムイノミ) [布哇通信: HAWAII journal]

2007年6月16日、横浜のぷかり桟橋に停泊中のホクレアを、
アイヌの代表団が訪れ、カムイノミを行ない、
ホクレアを祝福してくださいました。

ホクレア側からは、
カイウラニとカニエラさんとレイトンさんがこの儀式に参列しました。
他のメンバーは同時刻に、クルーによる別な講演会があって、
そちらへ行ってしまったのですが、
個人的にはクルー全員に参列してほしかったです。
(サムとカイウラニのお母さん&おばさん&おばあちゃんも、
カムイノミの会場にいました)

写真は、アイヌの民族衣装を身を包み、
「イナウ(inaw, inau)」を手にしたカイウラニ・マーフィー…

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Photo by Jin Takuma
(琢磨仁さん&啓子さんご夫婦には、大変お世話になりました。 ありがとうございました。)

アイヌの儀式「カムイノミ」(その4)~アイヌの祭具「イナウ」~
http://goo.gl/zZTrHr [アイヌ民族文化研究センター]

この「イナウ」、カムイノミの後に、
(かつての、アイヌのイタオマチプのように)
ホクレアの船首側のマストのロープに取り付けられました。

イタオマチプ(itaomacip)
http://goo.gl/UeXFwQ [札幌市]

横浜最終日、6月20日の解体時、
「イナウ」はカイウラニが手に持っていたので、
ハワイイまで持って帰ってるはずです。

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Photo by Jin Takuma

ホクレアが横浜の海に浮かんでいた間(6月9日~20日)
たくさんのイベントがあったのですが、

【カムイノミが、一番印象深かったです】

この日に、ここにいなければ、
僕と、アイヌとのつながりはなく、今、トンコリも弾いてない?
2007年の6月16日、ちょうど、僕の誕生日の翌日であり、
新しい人生のの扉が開いた、忘れられない一日であったと、今でも確信しています。

エディ・アイカウを追いかけて、ホクレアをサポートしていたら…

最終寄港地の横浜でアイヌに出会い、
2008年から、沖縄でOC-1を漕ぐ生活にシフトし、
2010年から、三線を放り出して、トンコリを弾くようになりました。

2007年のホクレア日本航海、
僕の人生に大きなターニングポイントを与えてくれました。

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Photo by Toshi

この写真は、カムイノミが始まる前に、僕が撮ったものですが、
カイウラニと島田あけみさんの頭上に、謎の光が?

山下公園での、クルー&サポーターのパーティーでは、
琢磨仁さんの撮った写真は、オーブだらけ?

今思えば、この星の上で、ご縁がある方々との
魂と魂の出会いの時間を過ごさせてもらえたことに、
ただただ、感謝の気持ちでいっぱいです。
(ホンマに、濃ゆい時間やったわ~)

MAHALO & イヤイライケレ

PEACE


ホクレア&カマヘレが停泊していた糸満漁港 [布哇通信: HAWAII journal]

2007年4月24日午前1時過ぎから、29日の午前9時過ぎまでの間、
ハワイイのホクレア&カマヘレが、糸満漁港に停泊していました。

ホクレア号 エイサー、フラで歓迎 糸満漁港
http://ryukyushimpo.jp/photo/prentry-23300.html
[琉球新報]

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Photo by Toshi

ちなみに、到着した夜中に、三線を弾いていたのは僕です。
「加那よー」という琉球民謡の、
うたもち(イントロ)をひたすら繰り返していたのですが、
やや、チンダミ(チューニング)がズレてました…(汗)

あの夜は、沖に見える、ホクレア&カマヘレと思われる灯りが、
近づいてくるのを長時間、ずーっと見ていたのですが、
ホクレア&カマヘレは、ワープしたかのように、
闇の中から、突然、視界の中に現れました。

ホクレア&カマヘレと初めて遭遇した時の様子は、
今でも、脳の中にしっかりと記憶されています。

2015年の現在、ホクレア&カマヘレが停泊していた岸壁は、
綺麗にリニューアルされたのと、間仕切りのような壁ができて、
ダイレクトに外洋を望めなくなっています。
(台風時の安全面は今の方がベター?)

僕が、座って三線を弾いていた場所からは、
ホクレア&カマヘレが入ってきたルートを見ることはできなくなりました。

【2007年の、あの時の面影は、今の糸満漁港にはありません】

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Photo by Toshi

【空撮】糸満漁港 沖縄県糸満市潮崎から in Itoman-city Okinawa
https://www.youtube.com/watch?v=KxITj2KUcqs
●Powered by SeabirdzStudio1

【空撮】美々ビーチ (沖縄県糸満市) BIBI-BEACH ITOMAN OKINAWA
https://www.youtube.com/watch?v=sT2KjtZZpnU
●Powered by SeabirdzStudio1

2008年から、この海で遊んでます。

このあたりは、すぐ沖にリーフがあって、
うねりがある日は、サーフィンには不向きだけど、
カヌーサーフィンにはバッチリな海です。

ドローン空撮の動画、ものすごく海が綺麗なんですが、
実際、綺麗です(笑)
でも、ビーチは、ほとんど人工物…
沖縄本島、圧倒的に人工ビーチだらけ?

あと、糸満は西に面しているので、沈む夕陽&夕焼けが超綺麗です。

沖縄県 美々ビーチいとまんの夕陽
https://www.youtube.com/watch?v=ih23-URIadk
●Powered by HealingJapanTV

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Photo by Toshi

PEACE


神女と王の恋 ~『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』 比嘉康雄著 より~ [琉球通信:OKINAWA journal]

久高島で一番古いムトゥと考えられている大里家(ウプラトゥ)の前に、枝があたりいっぱい這うように広がり、濃緑色の厚ぼったい葉を小山のように繁らせているガジュマルの樹がある。このガジュマルの庭先近くの太めの枝をさして、「クゥンチャサンヌルが首吊って自殺した枝だ」と、大里家の男性神職者の西銘豊吉さんが生々しく語るのを聞いたことがある。
「死に方がよくなかったから、クゥンチャサンヌルは死んだ後、ノロ(ヌル)の位から根神(ニーガン)」の位に下げられた。今では外間根家(フカマニーヤ―)の根神の祖先として大里家に祀られているんだ」と出来事がまるで最近あったかのようにいう。

クゥンチャサンヌルは大里家の娘で、ヌルといわれた神女であった。その死について、久高の人々はこういう物語を語る。

「(琉球王朝の)尚徳王がクゥンチャサンヌルと恋に落ち、政治を忘れてロマンスの日々を久高島で過ごしているうちに城内で革命が起こり、それを知った尚徳王は帰りの船中から海に身を投げて死んだ。これを悲しんだクゥンチャサンヌルは、家の前のガジュマルで首を吊り自殺した」

クゥンチャサンヌルの自殺の理由は、愛人であった尚徳王の自殺の後追いであったというのである。
…………

クゥンチャサンヌルは美人と伝えられてもいたが、目に見えない異界と交信する超能力を持つ評判の高いシャーマンであったという。尚徳王はその存在を知り、なんらかの苦境を打開する目的でたずねたというのが真相ではないか。再々通っているうちに、尚徳王はクゥンチャサンヌルの超能力と美貌に魅了され、恋に落ちたのではないだろうか。

じつはこの物語の時代はノロ制度が施行される以前であって、久高島にはまだシマを統轄する官人としてのノロは存在していない。祭政一致政策として施行された、王妹<聞得大君>を頂点とする神女組織であるノロ制度は第二尚氏王統第三代の尚真王時代になってのことであって、それ以前の久高島では、血族のムトゥが何軒か誕生しており、その各始祖家に超能力を保持する女性神役がおり、その力でムトゥに属する人々の命運を司っていた。

中でも一番古い大里家には、久高島にとどまらず沖縄本島まで評判の高い、優れた超能力と美貌の持ち主、クゥンチャサンヌルがいたのである。

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『日本人の魂の原郷 沖縄久高島 (集英社新書)』 比嘉康雄著 より引用

1429年に三山統一し、琉球王朝を成立させた第一尚氏王統の、
第七代目の王が尚徳王で、第一尚氏王統の最後の王になります。
(尚徳王は、29歳で没します)

その後、金丸の第二尚氏王統へと、移行していきます。

第一尚氏王統が転覆した原因が、
尚徳王と久高ノロとのラブロマンスだったかのような物語、
なかなか興味深いです。

第一尚氏王統転覆の原因は、いろいろあったと思いますが、
結局、尚徳王の徳の無さが、金丸派のクーデターを誘発させることになった?
(第一尚氏王統そのものの徳の無さもあると思います)

尚徳王がクゥンチャサンヌルの力に頼りたかったのは、本当の話かもしれません…

450年間続いた琉球王朝ですが、第一尚氏王統は64年間で幕を閉じます。
(圧倒的に第二尚氏王統の時代の方が長い)

聞得大君が登場するのは、第二尚氏王統になってからです。

クゥンチャサンヌルとは、国司のノロという意味で、
聞得大君が登場して、ノロ制度が施行される前から、 久高にはノロ(ヌル)という存在がいたことになります。

【ヌル = 心霊を憑依する者】

映画『イザイホウ』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=hYrhxkYJuM0

映画「イザイホウ」の上映会での、琉球大学の赤嶺政信教授の、
イザイホウ・聞得大君・久高の神女、に関しての大変貴重なお話の動画です。

ドキュメンタリー映画「イザイホウ」桜坂劇場3/7トークライブ https://www.youtube.com/watch?v=rZ96KTXrl68

久高島0320
https://www.youtube.com/watch?v=JsCopvqS6Lg

PEACE


久松五勇士のお話 ~『宮古島物語』 久貝徳三著 より~ [琉球通信:OKINAWA journal]

日露戦争で日本の連合艦隊と、ロシアのバルチック艦隊が、
1905年、対馬沖で日本海海戦という、歴史的な戦いを行ないます。

ロシアのバルチック艦隊の発見の通報を、
宮古島の海人(漁師)たちが、通信施設のある石垣島まで、
サバニを漕いで伝えました。
琉球弧を代表するパドラーである、その時の五人のメンバーが、
久松五勇士と呼ばれています。

15時間、170キロの距離を漕ぎきりました。

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Photo by Toshi

僕が、宮古島に行くと、必ずお世話になる宿のお父さんが、
(お父さん、三線の名人です)
この久松五勇士の末裔にあたります。

民宿 島人
http://www.e-shimanchu.com

宿に置いてあった、『宮古島物語』久貝徳三著のコピーで、
久松五勇士のお話を知りました。

その内容を、一部抜粋してシェアさせてもらいます。

宮古には、石垣まで行けるような帆船はなかった。あるとすれば、漁師の『さばに』だけである。
…………

ひとまず、漁師による石垣までの渡航は決った。

漁師と言うと池間か佐良浜の漁師がその対象となる。さしあたり池間の漁師に当たることにした。警察署長は池間の漁師を薦めた。池間島を巡察した時、筋骨逞しい男達と浜で会ったことを思いだしたのである。

しかし、考えてみると近くの野崎村にも漁師はいる。橋口島司は、警察署長の意見を無視して松原部落に使いの者を出して、松原部落会長を島庁に呼びつけた。

何ごとかあらんと一張羅を着込み、おろしたての下駄を履いて島庁に出頭した松原部落の会長の垣花善(かきのはなぜん)は、恐る恐る島司の橋口軍六前に進み出て名乗り、うやうやしく礼をした。相手は、島の役人すべてから辣腕島司として尊敬されている人物である。

見ればいかつい顔をした島司であるが、怒りの様子はない。
…………

橋口軍六は、呼びつけた理由を手短に話し、事態の緊急なることを説明して強力を求めた。野崎村の漁師にとって、石垣島までの航行距離は想像出来ないくらい遠い。いかに国のためとは言え、いまだやったことも考えたこともない舟旅である。一人ではとても出来ることではない。何人かの者と一緒に行くことになる。誰にしようか。垣花が即答できず、あれこれ考えていると、

「国の存亡に関わる事態だというのに、なにを考えておる」

と警察署長は、今にも腰の洋剣を抜かんばかりである。

二人の目が垣花をにらみ付けていた。

断ることは許される状態ではない。

「旅順港攻撃のため…多くの日本の若者が命をかけ、ロシア軍相手に戦っているというのに、宮古の漁師どもはおのれの糧を求めることばかり考えている。この際、日本男児として忠義をつくすべきである」

と説く。

「では」

ということで、一緒に行く者の人選は、垣花が松原部落に帰ってから行うことで話はまとまった。更に、翌朝未明に舟を出すことも約束させられた。石垣から打電する電文をはじめ石垣の島司あての依頼文書は、橋口軍六が明日の朝野崎村まで持って行くという。

垣花善は、急ぎ足で我が家への道をたどった。履いていた下駄は腰で帯にはさまれていた。島司や警察署長の態度から、自分に言い付けられていることが只事ではないことは察していた。誰がどのような理由で仕掛けたが分からない戦争という化け物のために、一人では背負いきれない大きな荷物をかつがされたような気分であった。
…………

このような大きな仕事を成し遂げるには屈強さを第一に、そして気心の合う者が五人は必要だということで、兄弟二人で人選を行った。目的地まで舟を漕ぐにはそれ相当の腕力を必要とする。さらに五人全員が心を合わせて一致強力することが、絶対に不可欠だと考えられた。途中洋上で仲違いをしていてはなずべきこともなしえない。そのためには気心の知れた者でなくてはならない。
…………

このように垣花善が選んだ五人は、始めはいずれも事の重大さに尻込みしていたが、家族とも話し合いの上で石垣行きを引き受けることになった。

即ち、石垣島までの舟を漕ぐ者は、

松原部落会長  垣花善(三十歳)かきのはなぜん
垣花善の弟   垣花亀(二十三歳)かきのはなかめ
垣花善の従兄弟 与那覇蒲(二十六歳)よなはかま
与那覇蒲の弟  与那覇松(二十四歳)よなはまつ
垣花亀の友人  与那覇蒲(二十二歳)よなはかま

の五人であった。
…………

野崎とは、松原と久貝両部落をあわせた呼び名である。中に入ると確かに松原と久貝という部落がある。それを隔てる境界線は道一本である。部落外の人がみたら一緒にみえることからこの両部落を野崎と呼んでいた。そして、これはやがて松原と久貝両部落の頭文字を突き合わせて、久松と呼称されるようになる

さて、人選は決った。

その夜はゆっくり休み、夜明けと同時に出発することにしたが、出発前に五人揃って部落守護神の鎮座する『大泊う嶽』(うふどまりゃうたき)の神様に航海安全の祈願をすること、親達からすすめられた。
…………

いつもは小鳥のさえずりのかしましい大泊う嶽の森の空間に、今朝は線香の煙が漂いはっきりと聞き取れないが、神司の神様へのとりなしの言葉が線香の煙とともに、木々の梢の間を抜け、朝霧の空に消えていった。その空のどこかにいるであろう神様が、この神司の言葉を聞き届けてこれるのだ。

「行く道々は、神様が見守ってくれるのだ」

五人が大泊う嶽で航海安全の祈願を終った時には、家族によって弁当や飲み水そして着替えやみの笠まで準備されていた。しかし、荷物は軽い方がよいということで弁当と水だけをとって行くことにした。

『宮古島物語』 久貝徳三著 より引用

勇気のある五人のパドラーは、そのお役目をきっちりと務め上げ、
無事に宮古島に戻ります。

しかし、大本営には、信濃丸からの通報の方が石垣島からの通報より、
早く伝わっていた…というのが歴史上の事実とされています。
(そうではない!という説もあり)

後に(25年後)、琉球弧を代表するパドラーである久松五勇士は、
記念碑の建立やら表彰やらを国家から受けることになりますが、
当の本人達は、それほど大したことをやったという自覚はなかったそうです。

宮古島のヒーロー 久松五勇士
http://www.miyakojima-kids.net/HISAMATSU_5_YUSHI.HTML

Sailing Ship Sabani 沖縄のサバニ職人
https://www.youtube.com/watch?v=T-DK5TlKD1Q

●久松五勇士の面影…みんな男前だったんじゃないのかなぁ…

Shimoji Isamu Miyako language 下地勇 宮古久松方言
https://www.youtube.com/watch?v=BhlSWJqjnts

下地 勇 ISAMU SHIMOJI / アタラカの星 ATARAKA NO HOSHI
https://www.youtube.com/watch?v=JDN2Vi_mJkA

●外洋を漕いで渡るというのは、こういうこと…

Pa'a 'Eono 2011
https://www.youtube.com/watch?v=r-IkkiLMkIU



日本海海戦の勝因


日本の連合艦隊は、当時、世界最強といわれていた、
ロシアのバルチック艦隊に、日本海海戦で、見事に勝利します。
国力や、艦隊の規模も、大きく劣っていた、アジアの弱小国日本が、
ロシアの艦隊に勝利したのには、世界中が驚きました。

その勝因の一つは、信濃丸や久松五勇士によって、
連合艦隊が一番知りたがっていた、
バルチック艦隊の動きをキャッチできたことにありますが、
僕的には、秋山真之(あきやまさねゆき)という、
作戦参謀の存在が大きかったと思ってます。

秋山真之は、日本海海戦前には、大本出口王仁三郎にも相談しています。

【本日天気晴朗ナレドモ浪高シ】

その時歴史が動いた 「日本海海戦 参謀 秋山真之 知られざる苦闘」 (2005年)
https://www.youtube.com/watch?v=DjkFBHNA728

[1:17:46]
大二戦隊司令官、上村彦之丞氏の判断にあっぱれ!
マジで、これが日本海海戦の直接勝因です

作戦の目的と意味を、従事者全員が徹底的に理解するだけでなく、
作戦通りに事が運ばなかった時の、リカバーをいかにするかが大事である…
ということを常に説いていた秋山真之のマインドセット(魂)には、
学ぶことが多いと思うのと、やはり、彼の素晴らしいマインドセット(魂)は、
戦争にではなく、平和に向けて使うチャンスを与えて欲しかったと、
今さらですが、カムイにぼやかせていただきます。
「生還の見込みの無い作戦は立てない」を信条に日露戦争に臨み日本海海戦では自ら編み出した「丁字戦法」によってバルチック艦隊を打ち破る。しかし、どんなに良い作戦を立てても敵味方に多くの犠牲者が出てしまう現状に悩み苦しむ

(秋山真之)

坂の上の雲 (テレビドラマ) -Wikipedia より引用

坂の上の雲 (テレビドラマ)では、秋山真之を、モックン(本木雅弘)が演じています。

坂の上の雲   日本海海戦   Turning Point Full HD
https://www.youtube.com/watch?v=P5ze4-iFEL4

日本海海戦.
https://www.youtube.com/watch?v=OD_5eARbxZk

ぶっちゃけ、この日本海海戦の勝利で調子に乗った日本海軍は、
制海権に執着し、後に戦艦大和武蔵という、
モンスター級の戦艦を作り出すことになります。
が、太平洋戦争では、戦闘機という全く新しいトレンドが発生し、
海上でも制空権を握った方が、戦いに勝利するという、
新たな時代の流れに大敗することになります。
(なんとも皮肉なカムイのいたずら…カムイの意志?)

戦(いくさ)の場(フィールド)が、
2次元(2D)から3次元(3D)になった瞬間に、
武士道騎士道は、過去のものに成り果てた…
(その時点で、戦争はこの星の上から削除されるべきだった)

PEACE


映画「原郷ニライカナイへ・比嘉康雄の魂」 ~母性原理と父性原理~ [琉球通信:OKINAWA journal]

『風になった大重潤一郎と未来へ原点回帰する旅』
~故大重潤一郎監督追悼祭りin沖縄~
http://www.kudakaodyssey.com/

2016年7月21日(木)の、初日に行ってきました。
初日のオープニングに上映される、

映画「原郷ニライカナイへ・比嘉康雄の魂」

がお目当てでした。

比嘉康雄氏の遺言とも言える多くのメッセージを、
大重潤一郎監督が記録した映画で、大重潤一郎監督は、これがきっかけで、
映画「久高オデッセイ」を製作することになったという、
兎に角、観たくて観たくてしょうがなかった映画がやっと観れました。

原郷ニライカナイへ-比嘉康雄の魂- 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=A_hYGZE6B24

比嘉康雄氏のメッセージの合間に、「うんうん…」みたいな感じで、
撮影中であろう、大重潤一郎監督の声が小さく聞こえてきます。

比嘉康雄氏が、琉球弧の古層文化の凄さに気付かされたのは、
宮古島の狩俣の祖神祭(ウヤガン)だったそうです。
相当ショック受けた経験をされたことを、
この映画の中で、熱く語っておられます。

宮古島(狩俣部落)の祖神祭(ウヤガン)
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/uyagan.pdf

琉球弧の祭祀は、ヤマトゥ(内地)とは大きく異なり、
女性が中心です。
久高島のイザイホーしかり、宮古島のウヤガンしかり、
男性は、ほぼ活躍の場所はありません。

比嘉康雄氏は、この祈りのスタイルを母性原理と呼んでいます。
相反する、

【父性原理の象徴は戦争である】

というところで、僕は思わず「う~ん」と唸ってしまいましたが、
映画の中では、大重潤一郎監督が同じく「う~ん」と唸っている声が聞こえました。
(シンクロしました:笑)

久高島に関しても、表面的に琉球王府からコントロールされていたけれど、
琉球王府のコントロールできない領域が存在し、
それが、久高島に深く根付いた、本来の祭祀・祈りの世界である。

本来の祭祀・祈りの世界が、目の前に形となって現れている、大変貴重な場所である…
という、僕にとっては新たな視点を投げかけてくださって、マジで観れてよかったです。
(新たな視点、他にも、たくさんもいただけました)

まえがき 古代祭祀が残った島

人々は、魂の不滅を信じ、魂の帰る場所、そして再生する場所を海の彼方のニラーハラーに想定し、そこから守護力をもって島の聖域にたちかえる母神の存在に守護をたのんでいる。この「母たちの神」は、<生む><育てる><守る>という母性の有り様の中で形成された、つまり、内発的、自然的で、生命に対する慈しみがベースになっている<やさしい神>である。この久高島の祭祀世界を深く見ていくなかで、私は、母性原理の神のもつ根本的な意味を考えさせられることになった。

久高島は沖縄本島から比較的近い離島である。今でこそ定期船が就航し便利になったが、戦前は定期船などなく、病気、買物など特別な時に漁師のサバニという刳り船を頼んで行くという状態であった。つまり島の独自性が----島人にとっては不本意であったかもしれないが----保持されることになった。また久高島は琉球開闢の祖神が降り立った島として首里王府から位置づけられ、島人もこれを誇りにした。そのため、とくに近年の皇民化教育の中で母性原理の祭祀世界が近代化をさまたげるものとされたなかにあって、久高島は自信をもって祭祀をつづけてきたのである。

それに、生業が農業漁業であって、自然を対象にしていたことも重要である。そうして最も大事なことは「母たちの神」を信じてこれを支えた女性たちがいたし、今もいるということである。

このような精神文化の祖型が残ったということはすばらしいことである。この母性原理の文化は、父性原理の文化がとどまることを知らず直進を続けて、破局の危うさを露呈している現代を考える大切な手がかりになるであろう

いまや残してくれたシマの人々に感謝しなければならない。

51SD2VE5SYL.jpg

『日本人の魂の原郷 沖縄久高島 (集英社新書)』 比嘉康雄著 より引用

映画「原郷ニライカナイへ・比嘉康雄の魂」の上映後は、
会場を移動して、沖縄大学の学生の方々も参加しての…
(授業の一環?)
映画「久高オデッセイ第一部 結章」の上映会でした。
僕は、2007年に観ているのですが、内容を全く覚えていない自分に、
老化現象を感じました。

【予告編】映画『久高オデッセイ第一部 結章』
https://www.youtube.com/watch?v=JLQp2rUwPFY

イベント自体は、3日間あって、初日もまだまだプログラムは続くのですが、
僕は、ここらでおいとましました。

帰る前に、須藤先生に、「監督にお線香をあげていってよ」って言われ、
今回のイベントのために、来沖されてる監督の遺骨に、
一番最初にお焼香させていただきました。

監督~、カムイとなって、このイベントを、須藤先生や比嘉真人さんを、
これからも、お守りください…
(そのくらいのことは、してくれてもええやんかと思う)

映画 『黒 神』 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=KCK82z_IkDc

映画 『光りの島』 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=ScKtcVBoeFI

映画『久高オデッセイ第三部 風章』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=ZIczVVB6QO0

PEACE


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